さかき朋之 オフィシャルホームページ

徒然に…

日々感じていることを綴っていきます

2014年07月16日








ある議員辞職について

 今更説明の必要も無いであろうが兵庫県のとある県議会議員が政務活動費の不明瞭な使用と、その釈明会見の際に説明責任を一切果たさずに終始号泣し倒すと言う暴挙に及び、世論や周辺議員からの猛烈な反感を買い、その後一切表に姿を見せず議員辞職を申し出たらしい。これが正式に受理されれば公人ではなくただの民間人に戻る訳であるので、その方に対する非難中傷と言うのがどうかと思わなくもないが、彼の場合「公人」である時に犯した不始末について誹謗されるわけであるのでお許しを頂きたい。全く持って彼の行動は・・・いや、よそう。もう社会的な道義だとか議員たる者の心構え云々以前の問題として、極めて常識的に彼の様な者の事を真面目に論ずること自体が馬鹿らしいほどに、正に人間としてどうかと疑いたくなる話である。許されるのであれば人間を揶揄する際に最も侮蔑的な言葉を贈りたい気分である。辞職に際して最後のコメントなるものを自らのブログに掲載してあったようではあるが、この文章ひとつ取ってしても体裁も整っておらず大変申し訳ないが彼の知識レベルの底を見るような思いである。
 号泣「兵庫県議」がマスコミに自粛要請!
 ただ、大変迷惑であるのは一つに私とて彼と同じ議員と言う職業についている事で、まるで十羽一絡げの枠の中にマスコミ等が閉じ込めようとする論調である。これは迷惑至極も甚だしい。確かに広い意味で言えば間違いなく同じ特別公務員であるが、先程も言ったがこれほど常識はずれの人間と周囲を一緒にされては堪らない。ただ、この際にやはり真剣に考えるべきは「何故こういった人間が議員たりえたのか?」と言う点だ。当然、彼は選挙によって県民からの負託を受け議員となっていたのである。今現在、間違いなく彼に投票した殆どの県民の方が尋常で無い程の憤りを感じていらっしゃるであろう。「あんな人間だとは思わなかった」。当然である。知っていれば絶対に投票などするはずもない。要は現在の選挙制度が彼の様な人間をして議員として選ばれてしまう様な、即ち、立候補してきた人間の本質など全く掴めないままに多くの有権者が投票せざるを得ない制度である事がこのような、1万人以上の方が参政権をそれこそ溝に捨てるような悲惨な結果を産むのだ。この事については有権者の皆様も是非真剣に考えて頂きたい。今一つは問題の発端となった「政務活動費」の使用に関する問題だ。こういった事が起きれば当然のように議員に支払われている政務活動費の多さとその使用用途について民間の基準に置き換えて大変厳しい意見が出る。それ自体を否定はしない。だが、議員が議員として有権者の負託に真に応え、それらを実践するものを全て個人の懐で熟せ等と言う議論に飛躍するなら、議員は資産家しか勤まらないことになる。これはこれで大変な問題であろう。私は現在年間で15万円の政務活動費しか受け取っていない。はっきり言って何の活動も出来ない。間違いなく必要なものもあるのだ。当然それは丁寧に市民に説明する必要はあるが、現在のように無茶苦茶な人間の一事例を取ってこれを議論されてはたまらない。間違いなく、こんな非常識極まりない人間の行動云々を議論のベースにするべきではないが、大いなる問題を含んでいるのもある意味事実だ。私とて他山の石としてしっかりこの事を受け止めていきたい。
 しかし・・・こんな人間本当にいるのか?若干現実感がない私である。
2014年07月01日








野次

 「野次は議会の華」と言う言葉があるが都議会においての女性議員に対する不適切な野次が世界中で問題視されている。事の顛末については説明の必要もないだろう。
(都議会)ヤジ幕引き 塩村議員「一つの区切り」
そもそも「野次」は議会における不規則発言であって本来は絶対に許されない物である。だが、やはり人間の心理としておかしな発言に野次を飛ばしたくなることはあると私自身思う。で、今回の発言であるが、確かに、女性に対して配慮を欠いた不適切な発言であったと思う。が、それ以降のマスコミ報道において言われている、所謂「セクハラ発言」としての括りには若干抵抗がある。
 例えばであるが、私が「もっと男性の育児への参加を!」と言う発言をしたとしたら周囲は何というであろうか。もしくは「受動喫煙の害を減らすために完全分煙化を」と訴えれば、間違いなく周囲から「まずお前がしろ!」と文句を言われるであろう。今回「晩婚化対策」の質問をした議員に対してそういった言葉が飛ぶのもすべて不適切だろうか。未だ名乗り出てないとされる「産めるのか」発言は間違いなくいけない。身体的な理由で産めない場合だってあるのだからこれは正当化しようがない。その意味で言えば、性同一性障害と言った問題を自分で抱えているとしたら「早く結婚しろ」も確かに不適切だ。しかし考えて欲しい。もうそうなれば少なくとも男性は女性に対する台詞の全てが「セクハラ」と言う括りで捉えられてしまい何も発言できないことになりはしないか。とある新聞紙上では、男性社会が根強く残る議会と言う場所においては女性へ対する偏見が横行しており、それがセクハラ発言を誘発させるとまで論じてあった。いや、これこそ正に偏見だろう。恐ろしいほどに勉強を積んで完璧な理論を組み立てられている者の発言であれば、それが女性だろうと男性だろうと文句など付けようも無い。しかし、あまりに稚拙な理論や感情論のみを実際の行政の場で行えと言ったばかげた話を、議会と言う場所の重要性を思えば思うほど放置できないと言うのもある意味正論ではある。「もっと勉強してこい」であるとか「何言ってるんだ!」と言う言葉は浴びせられるだろう。このすべてを男尊女卑のセクハラ発言とするのはそこに何の理論性も無い。議会と言う場所を、この時とばかりに、まるで伏魔殿よろしく不見識の集まりの府のように貶めるのはいい。いつものマスコミの常道手段だ。だが、その見識を上げる為にすべきことは其々が人様に聞かれて何等恥ずかしくない、我が身を振り返っても一点の曇りも無い責任を持てる発言をする必要はある。適切な批判まで含めて全て女性蔑視のセクハラ発言とされるようなら皆口を噤み沈黙を守るだけだ。批判に晒されない議論程弱いものは無い。それが議会で良いのか、社会で良いのか、と言う事を一方で忘れるべきではないのではないか。野次のように自分が攻撃されない場所で他人を攻撃するのは確かに卑怯だ。だがそれと、セクハラを一緒くたに論ずべきではない。
2014年06月26日








国破れて・・・

 数日前から体調が悪い。と言うよりも正確にはボロボロである。お察しの通りワールドカップブラジル大会を誰に頼まれたわけでもないが必死になってテレビ観戦しているせいである。我ながら若干自分に対して呆れてもいる。
 ここで明確に宣言をしておくが私は生粋のサッカーファンである。いや、決して自分が過去においてその競技をしていたと言う訳ではない。ただひたすら応援するだけだ。過去においては「ダイヤモンドサッカー」と言う番組でしか日本はおろか海外のサッカー情報などは入ってくることはなかった。ワールドカップと言う全世界で20億もの人が世界中で観戦すると言われるほどの大会であってもNHKで深夜に申し訳程度に放送されていた時代もあった。少なくとも私は、86年のメキシコ大会からはその全ての試合をテレビで観戦している。多分、視聴率が1%も無いそんな時代だったであろう。それこそ深夜に1人テレビにかじりついて、翌日誰とも話題を共有できない、そんな時期が長く続いた。世界のサッカーを見るにつれて日本サッカーの現状を嘆き、多分、私の生きている間は日本がワールドカップに出場出来ることはないと、ある種確信を持って見ていたものだった。それが今ではどうだ?日本中がこの時期になればブルー一色に染まり、誰もが日本代表の熱烈なサポーターとなりどうかすると評論家にもなる。時代の変遷の恐ろしさすら感じる。ただ、大変残念なことに、今回のブラジル大会においてサッカー日本代表は国民の期待虚しく一生も上げる事なく予選リーグで姿を消す事となった。
<ブラジルW杯>日本一勝もできず 自信と期待砕かれ
 私自身、この三試合の結果は残念でしょうがない。テレビの前でこれ以上ないほどに肩を落とした。敗因はいくらでも考えられるし選手たちもファンに対して多くの謝罪の言葉を述べている。だが、これは明確に言っておきたいが選手が謝る事は何もない。こっちが勝手に期待して応援して落ち込んでいるだけだ。いやむしろ、先程も言ったが、アジア予選で先ずもって宿敵韓国に一切歯が立たず中東勢にも良いようにあしらわれ、芝の整備など一切出来てもいない国立競技場で殆ど観衆もいない中ひたすら泥にまみれていたあの時代を知る者からすれば、むしろサッカー日本代表には「多くの夢を見せてくれてありがとう」と感謝の言葉を述べるべきかと思っている。タイトルではないが「国破れて山河あり」と言う言葉がある。確かに試合には敗れた、選手たちは無念でならないであろう。しかし、この国のサッカー文化として得た物は非常に大きい。多くの代表が海外のクラブでプレーしこれほどまでに国民の中にサッカーの土壌が根付く事など30年前の誰が想像できたであろうか?海外からも「ワールドカップの常連国」と言う非常に高い評価を得ている。もう一つ、足りない物はあったかもしれない。だが、日の丸を、国の威信を背負い、自らの人生の全てを掛けて挑んでくれた戦士たちが残してくれたものはとてつもなく大きい。私はこのことに素直に感謝をしたい。夢は4年後へ持ち越そう。今年よりもさらに大きな夢を描かしてくれるであろう。結果は大事だ。だが結果以上に大事な何かは戦て選手が誰よりも感じているはずだ。お疲れ様でした。どうか胸を張って帰ってきて頂きたい。
2014年06月04日








強者共が夢のあと・・・

 去る5月27日から29日に愛知県に行政視察に訪れた。非常に興味深い御話をお伺いすることが出来て幸いであった。この報告は詳しく市議会関連に掲載させて頂く。その中で半日だけ時間が空いたので折角なので日本最古の木造のお城である犬山城に見学に行かせて頂いた。
 現在の名古屋と言えば当然であるがこのイメージであろう。

 近代的なビルが立ち並び、世界に冠たる自動車メーカートヨタのお膝元でもある。しかし、この地が一躍脚光を浴びたのはやはり戦国時代からであろう。長良川や木曽川と言った大きな河川によってもたらされる肥沃な尾張平野の地の利を生かし、まるで戦国武将の代表のように語られる斉藤道三、織田信長、豊臣秀吉と日本の歴史を大きく動かした武将を多く輩出している。実際、今回初めて犬山城と言う古くからあるお城を訪ねて、その天守閣にまで登って実感した事だが、城と言うものがなぜあれほど巨大な天守閣に拘ったのかと言う答えも、その眼下に広がる景色を一望して理解できた気がする。背後に巨大な川を配し、前面に城下町を有するこの造りこそ天然の擁壁であり、見える範囲が自分の権力の及ぶ場所であったのであろう。決して大きなお城ではないが、さすがに400年の長きにわたり存在し得た建造物だけあってその構造の頑丈さには舌を巻く思いである。趣があって素晴らしいお城であった。

 そこから最寄りの名鉄の犬山駅まで歩いたのだが、ここが何とももったいない感が拭えない。これだけの建造物を有し自然も豊かな土地柄だ。今以上に本気になって観光客を誘致する試みに行政が力を入れるならば一体泥ほどの観光客が集まってくるかわからない程潜在力を秘めた観光名所だ。確かに若干古い町並みは残っていて素敵なお店もあるのだが許されるなら今以上の充実を一観光客としては望みたい。

 犬山城の城主はその周囲に出現した織田信長や豊臣秀吉と言う大武将の影響下にあって目まぐるしく変わっていったらしい。小国の悲劇がそこにある。しかし、城主こそ代われ、その政治力に翻弄されながらもお城だけは残った。有力大名の居城であればそうはいかなかったかもしれない。この辺りに歴史の悲哀を感じる。雄大な景色は目に焼き付いているが、この程度で満足してもいけないと言う事だろう。眼下に広がる壮大な景色にこれまでどれほどの人間が想いを馳せたであろう。そんな思いもすべて「強者どもが夢のあと」である・・・
2014年05月23日








校歌

 5月15日の「全員協議会開催」でも書かせて貰ったが春日市内の小学校の校長先生が麻薬の所持で逮捕されると言うあってはならない事件が起きている。教育行政全般の信頼を脅かす許すべからざる行為である。加えて広義で言う公務員と言うくくりでは本来法の順守が誰よりも求められる同じ立場に身を置くものとして世間に対して深く陳謝するものでもある。厳に、綱紀粛正に努めるべきであろう。兎に角、起きてはいけない事件で春日市教育委員会も学校の現場も、そして地域も本来しなくていい苦労を抱えてしまっている。何よりも生徒には一日も早い通常の生活と学習の機会を望む。これは当然である。だが、このひとりの不道徳な人間の逮捕の影響は様々なところに出ている。何よりも今我々の中で議論になっているのは、彼が作曲した市内二校の校歌の扱いをどうすべきか?と言う事である。先日開かれた学校運営委員会や教育委員会の方針は、これを破棄して変更すると言うものになったらしい。実は私はこの件に関して違和感を持って見ている。世に出回っている楽曲で何らかの犯罪に手を染めた者が手掛けた曲なんてそれこそ五万とある。それらの全てを否定は出来ないだろう。そもそも楽曲は世に出た瞬間からある意味その作り手の意思を離れて独り歩きするものだ。校歌の場合であるなら歌い継がれてきた伝統と言う鎧を見に纏い、一個の人格として存在するものではないだろうか?先程も言ったが、私は一切彼や彼の犯した反社会的な犯罪を擁護するつもりなどない。だが、これを罰するのは司法の場であって行政ではない。社会的な制裁も十分に受けるだろう。しかし、その事をもってしてこれまでの彼の実績の全てを、感情的にはそうであっても、これを否定し抹消するような行為をすべきではない。況してや、常に人間の更生を声高らかに謳う教育の場であるなら尚更ではないか?「こういった犯罪を犯せばこんな目に合う」と言うもを示すのも、本来この国で禁じれれている見せしめのような話になりはしないか?現場で今現在教育に携わっていらっしゃる人々の、こんな愚行の後始末のご心労は正に察して余りあるものだ。その方々の判断は間違いなく尊重すべきだ。だが半面、あまりに当事者であるが故に、生々しい現場に携わっておられるが故に、教育の理念より感情が勝ってはいないだろうか。現実問題として、今この時点で校歌を代えれば、これまで卒業していった生徒たちは自らの校歌を失うことになる。彼らにしてみれば校歌はたった一つだけだ。そしてこの人たちの意見を全て救い上げる事などまず不可能であろう。本人が現在容疑を認めているとはいえ、送検もされてない現在、彼は唯の容疑者だし、送検されても被告でしかない。裁判が確定したのちに初めて犯罪者となる。この結論も当然今は出ていない。学校の運営に係る方々の想いは間違いなく重い。であるが故に、今一度冷却期間を置き、現実的に対応できるものと出来ない物、加えて賛否両論踏まえての決定があって然るべきではないかと考えている。本当の意味で全ての利害関係者の意見のとりまとめなど出来はしない。であれば、こういった、それこそ其々の卒業生の価値観にも大きくかかわる重大事項については慎重の上にも慎重に決定を行うべきではないだろうか?何が正解と言う話ではない。私の考え方が思いっきり的外れかも知れない。ならばゆっくり時間をかけて審議すべきではないか?
 若干、この意見すら遅きに失した感があるのが残念だ・・・
2014年05月07日








博多夜曲

 GW期間中、日本中で最も賑わうのは私の地元の「博多どんたく」である。今年も240万人もの人手を記録したらしい。この祭り、古くは「博多松囃子」に期限があるとされているが、以前から私達地元の人間の間では「目立ちたがりで出たがり」の博多っ子達の日頃の芸を披露する場所として始まったのではないかと言われている。昔は舞台に勝手に素人が飛び入りで参加をしていたと言う。兎に角、賑やかなお祭りだが、私は子供心にこの祭りの良さが全く解らなかった。それはそうだろ。大人たちが勝手に、好き勝手に自分のやりたいだけの芸を披露しているのを見るくらい子供にとって退屈な事は無い。勝手にやっていてほしい。そう思っていたものだった。だが、このお祭りの中で唯一心踊らされた行事がある。当時はまだ福岡市内にも路面電車が走っていたが、この線路を色とりどりの電飾に身を包んだ「花電車」がどんたくの期間中だけ市内を闊歩するのだ。当時はまだ福岡市内と言えどもそう都会だったわけではないし、街も夜になると暗い所だったのだが、ここを煌々と照らすように漆黒の闇から浮かび上がる花電車の美しさに幼心に得も言われぬ憧れを持って見ていたものだった。そこだけがまるで別世界の様に輝いて夢のようだった。路面電車が廃止され、当然の様に花電車も走らなくなった。だが、バッテリー等技術が進歩したのであろう。暫くして「花バス」としてこの夢の乗り物は復活をした。当然、もう十分に大人になっていた私であるが復活を心から喜んだものだった。それから、もうまるで私にとっての決まりの様に、毎年、どんたくは観なくても花バスだけは見に行く様にしている。燦然と輝く幾つもの華やかな電球に飾られたバスの姿を見るだけで、この歳になっても、正に年甲斐も無く心踊っている自分を感じる。全く童心の抜けてないと言うよりも未成熟なおじさんであるのかも知れない。今年も、市内のパレードを終え、最後のお披露目の為に大濠公園に集結した花バスを見に行った。

 安直な表現で情けないが、本当に綺麗だった。来年は選挙である。どんたくのこの時期は選挙が終わってすぐと言う事になる。今年の様に心弾ませて見ることが出来るだろうか。いや、そうあるように努めなければならない。どんたくが終わればもうすぐ博多にも夏がやってくる。頬をなでる風は今が一番心地よいのかも知れない。そんな博多の夜の風物詩である・・・
2014年05月01日








全国学力テスト

 例年の事ではあるが、今年も小学生と中学生を対象に全国学力テストが開催された。この開催に伴って毎年のように各地で大きな議論となっているのが「学校別の成績を発表するか?」と言う問題である。これについて数年前までは実施を主管している文部科学省は「公表してはならない」としてきたが、世間での反対の意見を反映してか、今では条件付きではあるが「各教育委員会の方針で行う」としている。当然の様に各地で反応も様々と言う現状である。
 全国学力テスト 成績公表教委に賛否「格差縮小」「序列化招く」
 私はこの制度が始まった当初は、テストを実施する以上、その成績を発表するのは当然であると思っていた。むしろしないのであれば何のために実施するのだと。また、公表しない理由についても「数字が独り歩きする」であるとか「序列化を招く」等と言う、今後嫌でもその現実を受け入れてしか生きていけない生徒たちに対して取ってつけたようなお題目を唱えて一体何のためになるのかと言いたいほどであった。中学生にしてみればそのすぐ後に高校入試と言う、正に数字が独り歩きし序列化される現実に身を投じていくしかないのだ。その現実を知って何が悪いのだと、穿った見方をすればむしろこれを公表したくないのは、学校と言うよりも教師たちが序列化されることを恐れての行動ではないか、とさえ考えていた人間だ。しかし、よくよく考えればそうもいかない現実も確かにある。小中学校はその殆どが公立であり校区等も厳密に規定されている。即ち、生徒や保護者に選択の余地など無いに等しい。そこに住む人達は成績の良い悪いに関わらずその学校に通わざるを得ないのだ。成績がいい学校であればもう句を言う人間はそうはいないだろう。だが逆ならどうだ?悪いと判っていてそこに行かせたいだろうか?「もっと成績を上げて下さい!」と願った所であくまでも平均点は相対的な数字であるが故にどうにもならない部分も存在する。加えて統計学的な数字だ。実際これが個人の成績に何ら関与するものでもない。そういったことを考えると「発表したところでどうなる」と言うものではないのも紛れもない事実だ。となると、一体このテストは何のために開催しているのか、その抑々の意義が解らなくなってしまう。仮にテストの成績を受けて「わが校は全国平均よりも低いので来年は高くしよう!」と頑張られたとする。そうのために利用するなら結構な話だ。だがその結果は数字でしか示されない。ならば公表するしかないではないか?これは全くの矛盾だ。各教育委員会に委ねると言うのも実はとんでもない責任転換だ。公立高校は自治体を跨いだ、県と言う行政範囲で運営されている。現実的な問題と、教育の理念と、実際の運用の全てで矛盾を生むような、そんな制度になってしまっている。様々な教育の世界に見え隠れする問題点を更に炙り出すだけの可笑しな制度になっているのではないだろうか。ランキングを測るなら個人の成績も含めて明確に序列化して公表すべきだ。最低限の習熟度を見たい、もしくは今後の改善点を見つけ出す為の物なら公表するまでも無い。現実の競争社会と教育の理念がごっちゃになって、その危うい土台の上で運用まで揺らいでいる制度をこのままで続ける意味があるかを今一度、方法論まで含めて議論すべきであると思うが如何だろうか?
2014年04月17日








配偶者控除見直し検討

 また政府が可笑しな事を言い出している。今現在各家庭に認められている配偶者控除の廃止も含めた検討を始めると言う。誰でも聞いたことがあるであろう、その「103万円の壁」の撤廃である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140404-00000029-bloom_st-bus_all
まあ、政府と言うのはいつの時代であっても政府としての収入である税収は1円でも多く欲しいと思うは当然であるし、況してや現在の様に歳入よりも遥かに歳出が多い、所謂債務超過の現状にあっては尚更であろう。で、今度はここに目を付けたのであるが、その理由がチャンチャラおかしい。「現在の配偶者控除制度は女性の社会進出の妨げになっている」のだと言う。これを本気で思うのであればもう政治家なんてやめた方が良いと言うか、敢えて言うなら今一度本気で社会で勉強してきて頂きたいものだ。女性の社会進出と現在パートで家計を助ける為に働いている方々との思いは明確に問題が違う。女性の社会進出の話を今以上に真剣に考えたいのであれば、それは全く違う場所で議論して頂きたい。仮に今現在の控除が廃止されたからと言って何も女性の社会進出は進まない。言い方は大変悪いが、ただ、家庭と育児に追われつつも控除がなくなった分だけあくせくと働かなければならない主婦が、その意味では追いつめられた女性が増えるだけであろう。この事で恩恵を受ける方が一体何パーセントいるのか真剣に考えた方が良い。多分、殆どいない。況してや、これを仮に推進するならば他の社会保障を今以上に整備しなければなるまい。保育環境の整備などその筆頭であろう。それが遅々として進まない中にあってまず控除から外すと言うのは明確に手段の順番が違っている。加えて、これを女性にだけ押し付けられる問題では決してないが人口減少社会もこの国に大きな圧力をかけている。女性が正社員として働き続けられる上で子育ても安心してできる環境が整えばそれが一番理想ではあるが、ある意味これは女性の価値観の問題であって強制できるようなものでもない。ただ、その際はあくまで女性も正社員として働き続ける訳であるから、その際は控除等一切関係ない。そんな社会になればそれはもう大したものだ。だが、現状の多くの女性が已む無く受け入れている状況は、ある意味唯企業の都合の良いように使われているだけの立場ではないか。この中で、これまでより、例えば年間で30万円多く給与を受け取ったところで、暮らしは一向に楽にはならないし、むしろ負担が増えるだけだ。加えて、これを女性の社会進出とは絶対に呼べない。これは議論のすり替えも甚だしい。ただ、確かに見直すべき点がない訳ではない。配偶者控除を高所得層にもかけている点などは見直す価値はあろう。だが、一方で間違いなく家庭での、所謂「家事」と言う労働も社会に貢献する重要な労働であると言う考え方もあるのだ。こういった全てを否定することになると、これまで『内助の功』等と言ってきた我が国固有の文化を破壊する事にもなりかねない。「家庭にいて旦那さんを支える」と言う行為自体を否定される人もいるであろうが、こうなるともうジェンダー論争だとかと言う価値観の争いにも繋がりかねない。消費税も上がった、所得控除も無くなる、では、まるで低所得層狙いうちの税制ではないか。「取りやすい所から」ではなく「取るべき所から」しっかりと税金を取って頂きたいと思う。如何であろうか。
2014年04月01日








潔く艶やかに

 いよいよ今日から新年度が始まる。
 私にとってこの新年度は任期最後の一年と言う特別な意味を持っている。この3年間、最下位で当選した自分に求められるものは何か。市議会議員として果たしてあるべき姿とはどういったものか。その答えを追求しながら自分なりに必死で走ってきたつもりではいる。しかし、それが正しかったのか間違っているのかの答は今は全く解らない。足りない部分もあったであろう。その事を補い得る一年に出来るかは唯々私自身に掛かっている。間違いなくこれまで以上に自分自身に更に厳しい要求を突き付けて、手枷足枷を付けて進まねばならないだろう。手ごたえも無いし確証もない。正に雲をつかむような状況ではあるが、それでも正しいと思う事をやるしかない以上、私は闇雲にそうするだけだ。

 毎年美しい花をその身一杯に纏い、周囲を楽しませてくれる桜が今年も本当に綺麗に咲いている。気高く雄々しく雄大に周囲の景色を一面桜色に染めて、しかし刹那に行く春を惜しむ暇も与えず華々しく散っていく。毎年毎年繰り返されるこの光景を果たして来年どんな気持ちで観れるだろう。先程も言ったが私の進むべき道がどこなのか、その答えは来年のこの時期にしか出ない。精一杯為すべき事をして結果を待つのであれば、せめて私の大好きな桜の様に、華々しく艶やかに咲き誇り潔くその進退を周囲に委ねよう。為すべき事を為す、そんな一年にしていくつもりである。
2014年03月30日








出直し市長選

 私にはその辞職の理由と言うか、その正当性が全く理解できないのだが、大阪市長が任期途中で辞職し、その為の出直し選挙が開催された。投票率は政令市の選挙としては異例の25%を下回る低さであった。そもそも、この選挙は一体なんだったのか?大阪の都構想を公約として強引に推し進めようとする市長に対してこれに反対する議会の勢力が圧倒的に強いため「民意を得る」ために踏み切った選挙だ。いやもう、この時点で全く意味不明である。国会の様に議会を解散して行うなら意味も解るが、議会の勢力は一切変わらない状況下にあって市長選だけを行って、そこで信任を得たから「民意を得た」ので、その後は好きなように出来ると考えたのであろうか。そもそも首長にはその乱用は控えるべきとされているが専決権は存在する。しかし、あくまでもこの利用は議会との関係上限定的であるべきだ。その事はその乱用で市政に混乱を招いた阿久根市の事例でも明確になっている。これを「自分は一番新しい民意を得た」と言う事を後ろ盾にして行って良いのであれば、それは憲法に規定された二元代表制自体を否定することになる。議会を開催する時間的余裕がしっかりある通常の状態での市政に関する専決権がいかなる理由であれ濫用されてはならない。況してや、この投票率の低さは何だ。現代民主主義の根底を支える制度であるが故に原則論を言うならば、有権者は決して自らに与えられた参政権を放棄すべきではない。これを放棄するのであれば自らは一切政治に対して意見を言う資格を本来は失ってしまう。また参政権を皆が行使しないのであれば当然の帰結として、これを全てに与えるべきか等と言った、人間が長年の歴史の中で折角勝ち取ってきた権利を捨てる事になりかねない。しかし、今回の選挙に関しては間違いなく「何故、ここで参政権を行使しなければならない」と言った純粋な疑問が有権者にあったのも事実であろうし、そういった思いを抱かせたと言う意味において自らの思い込みだけで選挙と言う本来民主主義の根幹を支える重大な手法を不用意に用いた市長の責任は重大である。棄権をせざるを得ない様な選挙に一体誰がした。加えて、棄権と言う行動もまた民意であるとするにしても、実際に全有権者の20%足らずの得票で選ばれた市長が大声で謳う「民意」とは一体なんだ?と言う話にすらなってしまう。彼は間違いなく取るべき手段を間違えている。だが、この状況を見て「彼の人気も堕ちた」等と嘯く議会人も卑怯卑劣だ。本当に彼の考えが間違っているとするなら堂々と表に出て、それこそ都構想に反対の人間を擁立して投票率の高い選挙にすべきではないか。対立しておいて高みの見物は頂けない。首長や議会人が、有権者の選挙離れを加速させるような態度を取っては決してならない。それは正に自己否定だ。「誰がやっても同じ」であるとか「どうせ選挙に行っても」等と言う思いを抱かせない為に政治に係る人間は汗を流すべきではないのか。今回の一連の出直し選挙で政治不信はますます加速したであろう。その事を本人は勿論、議会も含めて関係者は猛省を行うべきである。
2014年03月18日








発言の自由

 山梨市で講演を行う予定であった学者の上野千鶴子氏の過去における発言が過激すぎるとして、市はいったん講演を中止する方向を打ち出したが、本人や市民からの激しい抗議を受けて一転講演会を開催することになると言う珍事が起きている。
上野さん講演会 山梨市一転講演を開催へ!
 先ずもって先に明確に私の意見を言っておくが、この市の判断は正しい。と言うより、間違っているのはそもそも公演を中止しようとしたその事だ。誤解を招く可能性があるから最後まで読んでいただきたいが、まず問題になったとされるのは数か月間の新聞でのお悩み相談で思春期の少年からの所謂性の相談に対しての回答での発言に対してだ。若干、公式の場でのコメントとして正しいかという問題はあるが、言っていること自体は別に過激だと言うよりも、まぁ面白い事を言うな、と言う感じだ。少なくともこの発言をしてその後の何かを中止したりするのであれば、下ネタが売りの芸人なんてそれこそ日本中どこでも使えやしない。ただ、はっきり言うがじゃあ新聞紙上での、TPOを弁えた上での品のある発言かどうかと言う事になれば、私は、品位の欠片も無い、と断言する。いや、私がこういった考えがないとか、どこでも言わない聖人君子だと言うつもりは更々ない。プライベートではもっと過激な発言もしている。ただTPOは弁える。先程、市はいったんこの発言を受けて注視と言う判断するのがおかしと言った。それは、別にこの発言に限らなくとも彼女はさらに過激な発言は繰り返しているのだ。そもそもそんな彼女に最初に白羽の矢を立てる事が私は首を傾げたくなるのだが、まあ、それでも一旦決めたのであるなら何かの発言をして取りやめるなどと言う事があって良いはずもない。それこそ、自由な発言の機会を奪う行為だし憲法違反だろう。それはご本人も言っておられたようだ。これは間違いなく正しい論法だ。ただ、ただだぞ、ならば間違ってはならないが今現在問題発言だの云々を取りだたされているNHKの会長や委員の発言もすべて一切制限せずに認めると言う事を確認しておくべきだ。何も私は彼女の意見に普段から同調していて今の彼女の立場を擁護するつもりで言っているのではない。はっきり言って彼女の考え方で賛同できる部分など微塵も無い。これは正しいや間違っているとかいう問題ではない。好き嫌いの話だ。嫌いだ。全く同調など出来ない。だが、だからと言って、そう自分の意見と全く相容れないからと言う理由で人様の口を封じたりできる訳も無ければ、言論の場を作らせない訳には行かない。そんな言論封殺が起きるようでは、それこそ恐怖社会だ。こっちだってたまらない。だから彼女の過去の過去の発言まで含めて一旦選考した以上何があっても講演会は行うべきだ。選考の過程に疑問はある。だが、私の大嫌いな立場の人の発言を自由に許す以上、こっちの発言を絶対に遮るなと言う事を忘れて貰っては困る。今回の件を弁論の自由を奪う暴挙だと抗議を行った方々は、絶対に幾ら自分達と考えが180度違う人間の発言でも「適性を欠く」等と言う事を言わないで頂きたい。自分達のは良くて相手陣営は駄目なんて、それこそ子どもの我儘の様な下らない理屈は絶対に通らない。
2014年03月05日








解釈

 現在国会において集団的自衛権の行使に関して憲法解釈が大変大きな問題になっている。念のために整理をしておくが、言うまでも無く「自衛権」とは独立国家がそもそも保有している権利で、他国から尚侵略等の際必要最小限であるとは言え武力を行使しても良いとするものである。わが国では国家の最高規範である憲法の条文並びに第9条において「戦争と武力の放棄」を高らかに謳ってはいるが、国家には元来その権利は存在するのであるから自衛隊と防衛のための戦争行為は認められるとされてきた。では集団的自衛権とはないかと言えば、これは戦後の国連において定められた権利で同盟国が攻撃を受けた際にはその領土内においても自国を守るために武力を行使出来うるとしたものだ。しかしながら我が国においては「武力の行使は必要最小限に限定されるべき」とする憲法解釈からこれを認めてこなかったものだ。これを現政権は首相の一任において行使できるように憲法解釈を変更しようと言うのだ。
 安倍首相「解釈改憲」発言で注目 立憲主義とは?
 明確に言うが、現在の国際情勢は複雑化を極めている。軍事的な問題ばかりではなく経済的な要素も複雑に絡み合って明日をも知れないのは紛れもない事実である。この中にあって「自衛」に限定された武力の公私しか認められない我が国の防衛上の安全の担保は「日米安保」が担っている。道義的に考えて他国の兵士が我が国の為に働いて、逆の場合は知らん顔と言う理屈が通るわけも無いのは自明の理だ。だが、それは現状では出来ない。ならばどうするべきか?解釈変更も止む無し。ではない!!これまで70年間も守り続けてきた解釈を憲法の文章の一文字も変わってないのに変更するなど出来るはずもないししてはいけない。ならば時の為政者のさじ加減ひとつで何でも有りと言う話になる。これはもう近代的な法治国家のするべき施策ではない。人治国家だ。ならば我が国は集団的自衛権を持ちえないか?冗談ではない!それはもう独立国家ではない。ならばやるべきは憲法改正しかないのだ。一つの国家が独立して自衛権を行使できる体制であるならば集団的自衛権の行使もその憲法に照らして行えばいいし、一身独立して我が身を正すならそもそも軍事同盟すら必要ないものにだって成り得るのだ。現首相は改憲論者ではなかったのか?それが何故、その正当な手続きを踏まずに小手先のしかも強引な解釈の変更と言う姑息な手段に、それも強硬に打って出るのか理解しがたい。こうなると大志や信念ではなくただの駄々っ子にしか見えやしない。この国の未来の形を方向付ける一大事を誤魔化しで済ますな。「私が責任を取る」は極めて勇敢な台詞に思えるが、その実、その責任や方法などありはしない、圧倒的に無責任な行動である事を知るべきだ。国の形が歪であると言う意味において私も何等異論はない。占領国に押し付けられた法律を国の最高規範として70年間も後生大事に守る行為が独立国家としての在り様のはずもない。ならばその事や今そこにあるであろう危機を誇張する事なく国民に晒して議論を興すべきだろう。その先に独立国家として持つべき憲法のあるべき姿が見えてくるのではないか?誤魔化すべきではない!そう思うが如何であろうか?
2014年02月26日








失言

 国会においてNHKの会長や経営委員の発言が大きな問題になっている。会長はその就任会見においてあくまで「個人的な見解」であるとして過去の歴史認識について発言し、経営委員は他の席で一人は他人を貶める発言をし、もう一人は過去の思想家を麗参する論評を書いている。この内容について詳しく検証するつもりも無ければどうこう言うつもりもない。人様の考え方など正に百人十色であって何が正しいとか間違っているなどと言う種類のものではあるまい。ただ、もし、私の考え方を明確にしないのが卑怯であると言われるのであれば、少なくともこの後三人の御意見のどこが間違っているのか私には解らないし至極尤もなことを言っているとしか思えない。ただ、これを問題視する野党は、「国営放送たるNHKの経営に携わる者の発言として不見識であるし、このような人物を委員に指名した政府は任命責任がある」と言うのだ。だが、先程も言ったように人の意見と言うのは右から左までそれこそいくらでもある。受け手によって正しいとか正しくないと言う判断が分かれるようなものをして不見識も何もない。自らと違う思想信条の人間の発言をして全てを否定するのは余りに乱暴ではないか。
 NHK経営委員発言「人間のクズ」 安倍首相は問題視せず
 いくら放送法と言う縛りの中で制限があると言っても、仮に今回の追求の論法がまかり通るのであれば、NHKの経営委員と言うのは野党の方々と全く同じ思想で尚且つ歴史認識でなければならなくなる。これはもう完全な思想統制だし、むしろ進歩派の人々が最も忌み嫌う言論弾圧ではないか。追求する野党の方には見えないのであろうが、これらの発言を了とする人間が大勢いる中で、しかも彼らの個人的な見解を述べた話の一体何が公共の福祉に反すると言うのだ。反していない以上如何なる思想信条も発言も、それこそ憲法によって規定されている事ではないか。私達と全く相容れない発言をする国会議員をして「議員としての適性を欠く」等と言う話が通るわけも無いし、通ってはいけない。ご自分たちの信念とは違うであろうことは充分理解できるが、その意見を封殺するような論法は御自分達の為にも控えた方が良い。良くわからないが「世論」を味方につけたつもりで笠に掛かれば必ず「世論」に潰される。その事は肝に銘じた方が良い。より何よりも国会で論ずべきことは他に幾らでもあるだろう。マスコミももっと大事な報道があるはずだ。その事を今一度考えて頂きたい。
2014年02月15日








五十歩百歩

 国会が開催されている。自民党の「一強」に対応する野党も見当たらず基本的には予算委員会での審議も盛り上がりに欠き随分と低調な感がなくも無い。まぁ数の勢いに任せて出来もしない理想主義を並べ立てて「うちの党が政権を取ればできる」等と言う絵空事の議論と言うより高校生のディスカッションを、それこそ高い税金払ってしかも国営放送付きで見せつけられるのは心の底からうんざりしていたので、この不毛なやり取りがなくなったことに関しては了としたい思いであるが、しかしだからと言って全く議論が白熱しないと言うのもどうかと思う。国会は正に熟議の場であるべきだ。これをまた逆に数の理論のみで押し切る者と諦めている者の妥協の産物の如き風景を見せつけられると、それはそれで国民を愚弄するなと怒鳴りたくもなる。間違いなく、国会の風景がおとなし目な感は否めない。そんな中にあって前政権を担っていたあの党の中には今でも元気な人もいらっしゃるようで、随分と首相を熱くさせる発言を繰り返していた。
 衆院予算委員会 民主長妻氏質問に首相怒声「だから民主はダメ!」
 いや、好きな人でも何でも無いので別に褒めているつもりなどない。ただ、なかなか厚かましいと言うか面の皮が厚いと言うか、いい根性はしてらっしゃるのだとは思う。経済政策等で現政権に文句を付けると言う姿は、なかなかどうして自分自身の過去を振り返れば通常の神経であれば出来ない荒業だと思う。これに対して首相も「ならばあなた方の政権で何が出来た!?何もできてないじゃないか!だから選挙で負けるんだ!」と声を荒げていたようだ。いや、全く持ってこれは正論であるし、現在の国民の殆どが同じ台詞で突込みを入れたいところである。だが、勘違いしてもらっては困る。これを言うのはあくまでも「国民」であって以前から政治家を続けている人間ではない。確かに今現在時の流れと言う追い風も手伝ってこの数年に無い経済は活況ぶりの兆しを見せてはいるが、未だ別に何も結論が出たわけでも何でも無い。消費増税後にどうなるかなんてわかりもしない。それにしては現首相はじめ政権は、正に「勝てば官軍」とでも言わんばかりに調子に乗り過ぎている。況してや確かに国民にとれば期待外れであったが他の政党までも、まるで鬼の首を取ったかのように「出来なかったじゃないか」と上から発言して優位に立つ姿勢は如何なものであろう。ならば問うが、ここまで失われた20年と呼ばれるほどの経済の低迷に何の処方箋も発行し得ず、それどころか病状を指を咥えて観るどころか悪化させ続けてきた政権与党は一体どこのどいつだ?と言う話になる。あまり大きなことは言わない方が良い。私から見ればただの五十歩百歩と言うよりも「目くそ鼻くそ」の世界にしか見えやしないのだ。これが時の首相では、それこそ品位を疑われるって話だ。「過去のことなどすっかり忘れて徹底的に他人を糾弾できる」そんな人間が大物政治家になれるのであれば、私はならなくても良いと思ったりもする。
 首相の有頂天ぶりと、前政権与党のまるで先祖返りの様な議論構成に一抹の不安を覚える私である。
2014年02月09日








景気回復へ

 先月の終わりに2年ぶりに福岡において「東京モーターショウ」が開催されたので見学に行ってきた。ディーラさんからのご招待だったのだが、それでなくても行きたいとは思っていたので、正に渡りに船、と言った所だった。私が会場へ行ったのは期間最終日の月曜日だったので、「きっと人も少ないだろう」等と山を踏んでいたのだが、これは全く私の見識不足で、会場どころか周辺道路まで大混雑と言う盛況ぶりであった。実際、主催者の発表では期間中4日間で15万人と言う人手には驚くばかりである。

 実は私、免許を取ったもう30年近く前から、運転や車が大好きでならない。先日も中日本まで2700キロも走破してきたが、全く持って苦にならないと言う人間である。「もし大金持ちになったら」等と言う、この年になっても尚、そういった夢見がちな台詞を吐いていると世間一般には「大丈夫か?」と心配されるであろうが、もし仮にそうなったとしたなら、間違いなくあの車とこの車と、ついでにあの車もと言った風に欲しい車がいくらでも出てくる。それほどに車が大好きだし、我々の世代は、どうかすると成功の象徴が「家の購入」と「高級車の購入」と言う風に思っている節がある。まあ冷静に考えると実に小さな自己満足ではあるのだが・・・



 タイトルで「景気回復へ」等と意味深な言葉を使わせて頂いた。今、世の中は少なくともリーマンショック以前の景気の水準に回復しつつあるようである。もし叶うのであれば、それ以前の「失われた20年」以前のバブルの頃まで回復してくれるに越したことはない。しかし、景気が回復基調にあるとは言っても、それはまだまだ実体経済に於いての事ではない。円安や株高で企業の業績が回復しているだけだ。一般的な庶民がこれを実感できるとしたら、やはり今以上に購買意欲が上がってきた時と言う事になろう。その時、我が国において何が一番売れるべきなのか?家電もあろう。サービスと言う新しい製品もあろう。しかし、我が国において、いや、近代の世界経済に於いて経済成長とはすなわちモータリゼーションの成長であったと言う感は否めない。いくらITの開発において情報の世界が広がったと言えども、やはり人がその行動範囲を飛躍的に膨らませ得たと言う意味において車社会の発展程近代の経済成長に寄与したものは無いと思う。特に、我が国において車産業は基幹産業だ。ここに未来があるか否かでは今後の社会構造は大きく変わると言っても決して過言ではあるまい。そんな未来が、ここには間違いなくあった。お恥ずかしながらいい歳をして興味津々、爛々と目を輝かせて展示されている見事な未来の羅針盤と成り得る車を観させて頂いた。ここに展示してある車が実用化されるならば、日本の未来、いや経済も楽観視できると感じた次第だ。
 よく、「最近は若者の車離れが進んでいる」と耳にする。誠に嘆かわしい話だ。大変残念な言い方であるが現代社会の発展は即ち物欲が支配していると言うのは紛れもない事実だ。それが低下していて経済成長など臨めるはずもない。しかし、この日会場で新車を熱心に覗き込む人々の姿はまさしく成長期の人の姿だったと私は思う。今ではもう珍しくもなんともないが、それでも私は「自動車」に夢を託してこれからも憧れを持って追い続けたいと思う。
2014年01月31日








表現の自由

 民法テレビ局が制作するドラマの内容が大きな社会問題になっている。内容は親に養育を拒否された子供たちの話である。これに対して、これらに関係のある団体からの抗議が相次ぎ番組のスポンサーが全て撤退すると言う事態に至っている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140129-00000920-yom-soci
 確かに、表現としてある種の社会問題を扱う際には、ある一定のモデルは存在する。それに直接関わる者にすれば時として不愉快な表現もあるであろう。間違っても面白半分にただそれを揶揄したり誹謗中傷したり、一方的に貶めるような表現が許されるはずはない。しかし、そこに社会の病巣としての問題が含まれていて、多くの人間がその病状に気が付いていないとすれば、やはり今社会が抱える問題としてそれを露わにし真剣にそれについて議論をしていく問題提起は必要である。全ての問題がそうであるように、社会で起こる様々な問題的な現象には原因がある。それを徹底的に洗い出さなければ根本的な解決に結びつくはずもないと言うのは正論である。これを全て拒否するのであれば何等問題など解決するわけも無いのだ。何かの問題について解決策や今後の展望について話をする際に「被害者の気持ちになれ」と言われてしまえばもう話はそれ以上進まない。客観的にそれらを捉えた上で今後へ繋ぐのが議論の目的なのに、全て「被害者の気持ち」を前面に出されれば「お気の毒に」であるか「可哀そうに」以上の言葉を発する事は出来ない。それでは議論は出来やしない。「被害者」や「当事者」の気持ちになれと言う制限が須らく全ての発言に付き纏うのならば、世の中で起こり得る様々な現象に関して自由に発言できる人間など誰一人居なくなってしまう。それで「放送中止を」と言うならば、今後その拡大解釈で現在あっている全てのドラマは放映など出来なくなる。
 サントリーや全日空の宣伝も「差別的である」と言う理由で放送を自粛させられている。種類こそ違うがNHK会長の記者会見も「配慮が足りない」と言う理由で大問題だ。冒頭にも述べたように一方的に他人を不勉強と偏見でもって貶し辱める行為を公共の電波を使って絶対に行なってはならない。しかし、考え方の違いを述べる事や、自由な表現をして「侮蔑的である」とか「差別だ」と、被害者感情だけを前面に出して言葉狩りを行うならば、それこそ表現の自由など絶対に保障されない。当然、問題の解決の為の根本的な話など出来るはずもない。この言葉狩りの風潮は間違いなく発展して言論封殺へ進んでいく。それを、最も表現の自由を標榜するはずのメディアが推進していくと言うのはどういう訳であろう。言葉の持つ本当の意味を知らない人間が表現の世界に携わっている。それが現在の日本の現状なのかもしれない。

2014年01月18日








伝統行事

 以前から事あるごとに言っているが、私が現在住んでいる春日市は弥生銀座と呼ばれるほどに弥生時代の古墳や遺跡が数多く発掘されるなど歴史の非常に古い地域である。現在HNK大河ドラマでもあっているが江戸時代より黒田家が隣接する福岡市を治めるようになってからも家老である黒田一成が直接統治を行い文化を継承してきた地域である。当然、古くから伝わる伝統行事も数多く継承されている。新聞等でも毎年紹介され非常に有名な祭りとしては、春日市の「春日」地域の「婿押し」と言うものがある。
http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/sugao/dentou/
 これは国指定重要無形民俗文化財に指定されてもいる、勇壮なお祭りである。お時間のある方はぜひ一度ご覧になって頂きたい。これが行われるのは毎年、小正月である1月14日である。この日は「春日」地域では全てのお宅が玄関を開け放ち、来訪者に御馳走やお酒をふるまうと言う仕来たりも残っている。どのお宅でもものすごいご馳走を用意してある。地域の結束が非常に固い所だ。

 ところで、春日には古くから「春日」の他に「小倉」と言う地域がある。これは太宰府に派遣されてきた藤原氏が遠く平安京を想い「春日」や「小倉」と言う地名を名づけたことに由来している訳であるから、この地域も非常に歴史のある地域である。この伝統的な二つの地域、悪く言えば対抗心が強いし、良く言えばお互い張り合って上を目指している地域である。「春日の婿押し」が行われる日に、小倉地区では「嫁の尻叩き」と「左義長」と言うお祭りを行う。春日が婿なら小倉は嫁と言うこの競り合いが良い。小倉地区にお嫁さんに来られた方のお尻を編んだ藁で叩くお祭りである。大変残念なことに最近ではこのお祭りに参加される新婚さんが少なく、ちょっと休憩中である。しかし、左義長は盛大に行う。

小倉地区にある住吉神社のお世辞にも大きくない境内に所狭しとばかりに藁と竹で組んだ巨大な塔が出現する。これに神事を終えた歳男たちが火をつけ、町民は正月飾りを投げ込んで今年一年の無事を祈る勇壮な火祭りだ。私が何より好きなのは、子ども達が自分たちが書いた習字の半紙を持ち寄り竹の先に突き刺し、轟々と燃え盛る火の中に入れる。一瞬で燃え尽きた紙が天高く舞い上がれば上がるほど「字が上手くなる」と言う儀式だ。火の粉を見上げ嬉しそうに笑う子どもたちの表情を観れるだけでもこの祭りは意義深いし、この子達がまたこの伝統行事を受け継いでいってくれると思うと頼もしくもある。地域の繋がりはしっかりと人の心に根付いている。この地域に限らずだが、伝統文化に守られた町と言うのは、ともすれば敷居が高く排他的であると言う批判はある。しきたり等に縛られるが故に致し方のないものでもあるが、それが即ち封建的な気分に繋がるならば改善の余地もあろう。特に近代的な政治の世界においてはこれは足枷にしかならない。しかし、文化としては極めて高尚なものである事を決して否定しない。むしろその崇高な精神は守られて相応しいものだ。それが即ち「伝統」へ変貌していくのである。私の個人活動にも書かせて貰っているが、私が住む桜ケ丘の「どんと焼き」も是非ここまで育てていきたいと心から願う。文化を作るもの、継承するもの、そして守るもの。そのご努力に心から敬意を表する。

2014年01月17日








争点

 善と知事の辞任に伴い、東京都知事選挙が行われる。告示まであと一週間となった最近になってようやく立候補者の顔ぶれが決まってきたようである。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140116-00000545-san-pol
 個人的に誰が好きだとか嫌いと言う事は基本的に口にすべきではないと思っているが、どうしてもあの元総理経験者の方の出馬表明に関しては首を傾げたくなってしまう。東京都は1200万もの人口を抱える大都市ではあるが、国の大きな括りで言えば間違いなく一地方都市と言う事になる。私自身も携わっている訳だが、「地方分権の時代」等と叫ばれて久しい現代にあっても、未だ国と地方はまるで主従関係にあるかのような、正に生殺与奪の全ての権限を国が握っているかのような旧態依然とした中央集権が蔓延っている。これに対して現状において大きな声でものが言えるのは財政的に大変豊かである東京都であるのは悲しいかな事実である。その意味においても、今後の東京都の選挙の結果いかんでは地方の風向きが大きく変わると言っても決して過言ではない。そこに、「脱原発」を大きく掲げて立候補すると言う人間が元総理だと言う。敢えて言えば二重に間違っている。先程も言ったが地方と国との関係でおかしなところは山のように存在する。仮にこれを変えるべきであると彼が主張するのならば、いや、主張しないのであれば立候補などする必要も無いのだが、であるならばそれは彼が国のトップにいた時に十分に解消しえた問題ではないか。明確に順番が違っている。国との関係なくして地方は語れない。彼は天に向かって、いや過去の自分に向かって唾吐くつもりなのだろうか。加えて他陣営からも指摘を受けているが「脱原発」は都政の今後を語る上で争点となる問題なのだろうか。いや、広い意味で言えば間違いなく東京都は日本中のどこよりも圧倒的な電力の巨大消費地である。ここが原発に全く依存しない電力行政を実行できると言うのであれば、それはこの後この国で語られている「脱原発」が、実行しうる未来のエネルギー政策として現実味を帯びても来るであろう。しかし、間違いなくそうであれば猛烈な痛みを伴う。明確に原発より原料単価の高いエネルギーを当面は購入するしかなく、その際に発生するであろう環境面にも配慮しなければならない。不安定極まりない次世代の電力供給についても一定の道筋をつける必要もあろう。リスクも含めてそれ相当の負担を都民や企業にお願いするのでなければこんな無責任な話を口に出せるわけも無い。理念とは別に「安定的な電力供給」と言うのも、間違いなく行政が果たすべき役割であるのだ。「脱原発」を推進するために税金の大幅な引き上げを行うと言うのならば理屈も通るであろう。そのモデル都市となる覚悟の上で都知事選挙の争点に「脱原発」を持ち出すと言うのだろうか。それはこれまでの彼の行動や言動を見る限り全く期待できないであろう。単純に感傷的なイデオロギーでしかあるまい。市井のただの人間であればそれも良い。しかし、彼は一時でもこの国の頂点に立った人間のはずだ。その人間にしてこの見識の無さには唯々呆れるばかりである。しかし、私が何と言おうと判断を下すのは都民である。どうかこの国に、劇場型の政治ショーに流されない冷静な人間が多数を占める事を唯々祈るばかりである。
2014年01月10日








見解の相違

 私が政治活動を行う上で大変衝撃的な事件が起きた。市内にある、市が運営する公立の保育園で行われる事業を見学しようとしたところ、そこに通園されている父母の会から「政治家の来園はお断りする」と言う申し出を受けたのだ。
 詳しい顛末は珍しく真面目に描いた私のブログに綴ってあるので是非読んで頂きたい。
http://ameblo.jp/sakaki-tomoyuki/entry-11745862516.html
 ブログにも当然詳しく書いているし、当事者の方からはお叱りを受けるであろうことは充分覚悟の上で申し上げるが、この申し出自体は極めて理不尽な筋の通らない一方的なものだ。公立の施設で行われる行事について、セキュリティや事業の阻害と言うマイナスの要因がない限り、何人たりともその見学や入場を制限する等と言う権限はありはしない。施設管理者から了解を取ってあるなら尚更だ。況してや、保育事業は行政が多大な予算をつぎ込んで、仕事をしながら育児も行うと言う大変過酷な環境下の父母を助け、尚且つ子どもの健全育成の環境作りを目指す重要な事業である。「子どもは社会の宝」と言う理念の基、社会全体で費用負担を賄って貰っている、正に公益の事業だ。当然、市民の負託を受け、行財政や行政が行う事業のチェック機能として存在している我々議員は、現在その中で何が行われ、何が問題で、今後どうしていくべきであるのかと言う点について深く理解をしておく必要がある。そうでなければ、多くの予算をこの事業につぎ込むことに対して一般市民に対して説明などできるはずもない。敢えて言うなら、こういった未来を担う子ども達や、現状の働きながら子供を育てる親御さんの環境を知る事は我々にとっては「責務」であると言えるのだ。これを、今現在施設を利用する利用者の会が占有し、政治家と言うより直接的に予算承認の責任を負う市議会議員の入場を拒否する等と言う行為が本来は許されるはずもない。それ以前に明確に言うが、私とて一市民だ。これを「政治家」だからと言う理由で入園を拒否するなら立派な職業差別であるし、そもそも市民の入場を断る理由など冒頭に挙げた理由以外にありはしない。入園拒否の決定をされた保護者の名誉の為に言っておくが、今回は、市が費用の大半を負担する授業を保育時間中に、保育園内で行う行事ではあるが、「保護者会主催」であったので確かに費用負担の一部は父母の会が出費を行ってた。であるが故に、こういった判断を父母会が行ったのだと言うが、先程「占有」と言わせて貰ったが、これは明らかに行き過ぎた反応だ。全てのベースが「公」であることを忘れている。子供を想い必死で頑張っておられる親御さんのお気持ちは理解する。しかし、そこはあくまでも公の場所だ。過敏になり過ぎての過剰反応で本来守るべきものを見失っておられないだろうか。
 過去において、多分、醜いまでに人前での挨拶を要求したり、名刺を配って回ると言った所謂選挙活動を繰り広げるお粗末極まりない、これも己の立場をはき違えた議員がいたであろうことは容易に想像がつくし、そういった姿をして「子どもの前でやって欲しくない」と言う心理が働いたのであれば、当然、私自身もそういった政治家を嫌悪もするし、同じ議員の一人として大いに反省すべきであるとも思う。しかし、私の趣旨は全く違うし、これまでにもそういた行動は決してしていないと断言できる。「見解の相違」と言ってしまえばそれまでなのだが、やはり市民にも我々の仕事の意味をもっと理解をして頂きたいし、我々もまた市民に知って貰う努力を更に行わないならばこういった実に不毛な、両者にとって全く利の無い、虚しいすれ違いは続くであろう。今回は保護者会の意見を一旦は聞き入れて引くことにした。しかし、必ず両者の誤解を解くための手立ては講じなければなるまい。あちらにも、そして私にも誤解はあるのかも知れない。新年早々非常に難しい問題に直面してしまった・・・
2014年01月01日








年頭に

 新年あけましておめでとうございます。
 旧年中は大変お世話になり心から御礼申し上げます。
 本年もどうかよろしくお願いいたします。

 昨年末の東京株式市場の大納会では、前年末、即ち安倍政権発足当初と比較して株価が2倍と言う、正に異例の値上がりを見せて終了致しております。間違いなく、市場においては景気が上向き、資金の流れも潤沢になっている証明でもあります。先に申しあげておきますが、私は現政権の施策等に異議を唱えるものではありません。最終的に経済を左右するものが「人の気分」であると考えている以上、人心を掴み、実際に景気拡幅と言う、これまでの幾台もの政権が出来えなかった事を成し遂げた政権に敬意すら表します。ただ、「右寄りである」と言った括りによる批判が当て嵌まるとは思いませんが、若干圧倒的な支持率を背景に政策面で行き過ぎる面がないか、と言う点に関しては注意深く見守っていくべきであると感じてはおります。私の様な立場の者が本来述べるべきではないのかもしれませんが、人心は時に圧倒的な時代の勢いにのまれ流され過ちを犯します。仮に、時の為政者が「支持率」のみに注力して政策を行なうと言うのであれば、それは危険であると言わざるを得ません。しかし、悲しいかな人心を掴んでいない者の言葉は、たとえそれが正しくても時代を動かす言葉には成り得ません。ここに政治の難しさはあると私は考えております。
 市民の御負託を受けてこの春日市で市議会議員として働かせて頂いて、今年で任期最後の4年目に突入します。地域の人々と共に活動し、議会の中にあって常に市民の視点で発言を繰り返してきたつもりではあります。しかしながらそれがどれだけの人に伝わったのか、と言う点に関しては唯々己の発信力の無さと行動の至らなさを恥じ入るばかりです。信じる正論があるのであれば、それを周囲に伝える努力を今一度自らに責務と課して、この任期の集大成としていくつもりです。何かとご迷惑もお掛けするかとは存じますが、どうか引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
 皆様にとりまして、この1年が実り多き年となります事を、心より御祈り致しております。
                  平成26年元旦
                 春日市議会議員  榊  朋之
2013年12月23日








抗議

 先日、今の政府としては4回目となる死刑が執行された。これに対して日弁連(日本弁護士連合会)は谷垣法務大臣宛に「極めて遺憾であり、日弁連は死刑執行に激しく抗議する」との声明文を出している。
 死刑執行に激しく抗議する日弁連会長声明
 内容についてはご一読を頂きたいが、要は冤罪による死刑囚を出さないようにするためであり、OECD加盟国の中で死刑制度を継続している国は最早日本だけであり、世界の趨勢から考えても死刑制度は廃止すべきであり、これについての国民的な議論を始めるべきであると言う。
 確かに、冤罪によって死刑が確定すると言う話は考えただけでもぞっとしない。神がその模様の一部始終を見ていて裁くなら兎も角、人が物的、状況証拠に基づいて裁く以上何らかの偏見が入り込む余地が無いとは言えないし、もしかすると権力者が都合の良い判決を下さないと言う保障は確かにない。しかし、ならばそれはむしろ弁護士たちが正に普段立ち会っている司法制度と言うか裁判制度に問題があり、冤罪事件などが生まれないようにすればいいと言うよりそれが起きないようにすればいい話であって、明らかに大衆の面前で何十人もの罪も無い人を殺めるような凶悪な犯罪者にまで死刑をするなと言う論法にはならないはずだ。況してや欧米と違うから野蛮だと言う様な議論は全く傾聴に値しない。欧米の殆どの国がそうであるように、ならば日本も自衛の為に拳銃の所持を認めるのか?文化風習が違うのだ。これを同列で論じる思考で最難関の司法試験に受かりこの国の司法の一翼を担っているとは片腹痛い。弁護士は現在ある法に対して従順たるべきだ。何も世間も彼らに対して「正義」など求めてはいない。仮に彼らが正義の希求者足るなら、少なくとも通りすがりや自己欲求を達成せんが為、もしくは甚だ身勝手な組織防衛の為だけに無辜の人たちを明確に幾人も殺めたような犯罪者を「心神喪失状態であった」等と言う、被害者や遺族の感情を全く無視した弁護などできるはずもない。仮に死刑がなくなれば、彼らは明確な犯罪者を一切守らず社会的な動議に照らして、正義を守る立場から只管情状酌量だけを願うと言うのだろうか?否!今と変わらず何故だか被害にあった者よりも加害者の人権だけを重んじ弁護に当たるだろう。それが仕事であるならそれは良い。だが、少なくとも社会正義などを語るな!現行の司法制度は死刑を含めた、それが前提の仕組みだ。これを抑々否定する人間相手にまともな裁判などできるはずもないではないか。法を順守する立場から警察や検察の手法を批判するのは良い。「法に則り適正に行え!」と。その中で、私には若干理解しがたいが犯罪者の人権を訴えるのも良いだろう。しかし、法の番人が現行の法をイデオロギーとして否定するならもう裁判など成立しない。今一度、彼らは自らの立ち位置を考えるべきだ。いや、敢えて言おう!わきまえろ!そんな気がするのは私だけだろうか?
2013年12月07日


白樺湖

高山陣屋跡

伊勢神宮内宮

出雲大社
一人旅

 実は私、11月の下旬に急に思い立って一人旅をしてきた。視察でも何でも無い、完全に個人的な趣味嗜好にのみ囚われた自由気儘な旅である。それを自らの、それも一応政治家を職業としている人間のホームページに掲載すべきか、は多少迷うところではある。だが、敢えて載せさせて頂く。
 何故か?
 答は極めてシンプンだ。何等恥じるようなことはしていないし、自分なりに得るものが極めて多かったから。である。
 以前も一度言ったかと思うが、昨今政治家や公務員の行動や経費の使い方については非常に世間の目は厳しい。確かに、私利私欲の為に公金を使用することに対して厳しいチェックが必要である事については否定をしない。だが、私が大変恐れるのは、今のチェックが行き過ぎると、極めて感情的な、敢えて言うとヒステリックな論法に飛躍しかねないか、という事だ。確かに国を始め公の機関の財政状態は逼迫していると言うより借金だらけだ。「無駄」を減らせは理解しよう。ならば問うが「無駄」とはなんだ?先程感情的と表現したが「旅行に行くなんて贅沢だ!そんな無駄な給料を払えるなら減らせ」と言った暴論になりかねないのだ。現在、我々議員は視察において相手先の公的機関のみを訪ねる。その場で相手方と話をさせて頂き、地域地域の抱える問題点や実情をお伺いはする。非常に勉強になる。しかし、そのすぐ隣に、例えば世界遺産があったとしても、そこを訪れる事は基本許されていない。そう、「視察名目で観光地に行った!」と言う非難を恐れるからだ。しかし、敢えて言わせて頂けば、観光地は、それを抱えた自治体の工夫や努力があり、そこに暮らす人たちにとってもその観光地は生活の一部なのだ。その一部から目を逸らして、その自治体の実情など語れるはずもない。況してや、先程も言ったが、そこには自治体の工夫がある。市民の工夫もある。それを各地で公に従事する公務員や議員が観て感じて学ばないのならば一体どうすると言うのだ?個人の資質の問題はある。だが、私は敢えて言わせて頂くが旅先で感じた些細な事も必ず自らの肥やしとし、今後の生活や人生の教訓として生かしていくつもりであるし、その自信もある。人生で無駄な時間など一秒も無い。況してや旅先と言う非日常の中にあって得るものが無いと言う事など私に言わせれば有り得ない。このすべてを否定して「無駄」や「贅沢」等と言う根拠の曖昧な基準を当て嵌める事が果たして正しいのかは、冷静に議論すべきではないだろうか?
 今回、長野県の白樺湖から各地の大きな神社、そして四国に掛かる大橋を見て感じてきた。疲れたが間違いなくこれからの自分の大いなる財産となるだろうし、そうするように努力もする。
 ちょっと我ながら異常な行程だったのでここではとても書ききれない。下記レポートで旅日記を綴っている。お時間があれば是非読んでいただきたい。

 西日本走破!式年遷宮記念 伊勢神宮・出雲大社の旅

 先にお断りをしておくが気持ちが入り過ぎて恐ろしく長い文章なので、心して掛かって頂きたい。
 さあ、ではまた今後は日常でしっかり頑張ってまいります!!
2013年11月29日







一票の格差

 先の参議院選挙において最も有権者数の少ない県と、最も多かった県とでは当選するまでに獲得する票数に最大で5倍もの隔たりがあり、これは憲法が保障する「法の下の平等」の意思に大きく反し、尚且つ、この状態を政府も放置していた責任は重大だとして、先の選挙は無効であるとする判決が先ごろ高等裁判所で出された。
7月の参院選「無効」一票の格差で高裁岡山支部「定数配分」無効
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27021_Y3A121C1000000/
 これは理屈では全く持って正しい。正しいが、この理論がまかり通るなら様々な弊害が発生することを裁判所は一切考えていない。現在の定数の元でさえ、法の精神に則り一票の格差を最もなくすような方式を取るのであれば、例えば、東京や大阪と言った大都市の定数は間違いなく倍増しなければならないし、鳥取や島根、または佐賀や長崎と言った地方では2県で一人の議員しか選出できないことになる。それが法の精神であると言われればそれまでだが、この方式で選出された国会が、果たして国会としての体を為すだろうか?それでなくても過疎化が進み、税収となるような産業も無く、負の悪循環が続いている地域の声はこれまでより更に中央に届かないことになる。「人口も少ない、税金も納めていない地域の声より、大都市の政策充実を!」は、至極まっとうな意見のように聞こえるが、その実、思いやりの欠片も無い、正に大都市のエゴだけが優先される偏った論法だ。この議論を尽くせていない国会が怠慢だと言われて、それを庇う気など更々無いが、だからと言って、現状の制度の元でそれなりに運営している国会や、何千万人の民意が託された先の選挙を「無効」と烙印を押す司法は余りに無責任ではないか。更に言えば、では、今現在、違憲状態もしくは無効な選挙で選出された議員で構成される国会での制度改正が果たして有効であるのか?と言う問題にまで行き着いてしまう。そうなるともう、この制度は、本来絶対行ってはならない法の精神であるところの「あらゆる法律は遡及しない」と言う大原則を破らなければならない事にすらなる。いや、もっと言えば、最高裁判所の判事すら、その違憲状態の国会の指名じゃないか!裁く権利すらない事になるぞ。これは明らかに司法の暴走だ。しかもこの判決の際に、鳥取県に比べて3倍以上の格差で当選した議員が「厳粛に受け入れる」とコメントしていたが、有権者が鳥取の人に比べると損をして話であって、むしろこの議員は鳥取県よりも高いハードルを越えて当選した人じゃないか?なんだか、話が全く整理できない気もする。
 法は、民主主義の元ではともすれば多数決と言う最終意思決定が行われるが故に、不利益を被る少数意見を守るために存在するものだ。法とは、額面通りにだけ憲法の条文を頭でっかちに解釈して、弱者の声を届けにくくする為の物ではない。当然、今の選挙制度がすべて正しいだなどと、これっぽっちも思ってはいない。いないが、国の根幹にかかわる制度であるが故に慎重な制度作りが必要なのは事実だ。世間を混乱足らしめるための法の順守と言うのは、むしろ法の精神から大きう逸脱しているように思うが、如何だろうか・・・
2013年11月14日







元首相の発言

 在任期間中から何かと話題の多い小泉元首相が、今度は在任期間中にはプルサーマル発電を頻りに推していたにも拘らず、今度は「脱原発」どころか「即廃止」を声高に訴え始めた。他の政治家であれば「変節だ!」と言われて一言も無いところであろうが、そこは小泉氏。器が違うと言うか以前からそういう事は一切気にしない。「気が変わった」で何等恥じる事なく押し通す姿は健在である。彼曰く「核燃料の最終処分場がない現状を考えれば即廃止」と言うことになるらしい。これについては、これまで盛んに噂されてきた「原発ビジネス」よりもさらに国費をつぎ込むことが予想される「廃炉ビジネス」の噂も囁かれてはいるが、まあ、彼なりの思惑があっての事ではあろう。
小泉元首相「脱原発」発言が止まらない!政権に身内からダメ出し
http://www.j-cast.com/2013/08/29182526.html?p=all
 私は明確に少なくとも脱原発論者ではない。それは原発のように一度事故があれば将来に渡ってまで大きな影響の出るものは将来的には無くなることが望ましいのは誰でも思う事である。しかし、ならば完全にそれに代わり得る物が無ければなるまい。私達は、それこそ罪深いほどに巨大な電力の消費者であり、それなしで生きていけないほどに便利な生活を享受している。これを捨てる覚悟があるなら兎も角、それも無しに「脱原発」は無責任に過ぎよう。自然エネルギーも安定供給には程遠いし、それが今後発生するであろう影響も見極められてはいない。電力と言う自然界に存在しない物を造る以上必ず原子力ほどではないにしろ影響は出るのだ。ならば今は、左記の地震や津波以上の災害にも絶対に耐えうる原発の整備と、並行して次世代の安全なエネルギーの在り方を模索すべきだろう。もしくは電力に依存しない生活を追求するかだ。理想を追いかけるのは確かに政治家の仕事でもある。しかし、現実に背を向けるのは違う気がする。元であっても一国の首相まで務めた人間だ。あらぬ疑念を招かぬよう発言には慎重であって欲しいと思うのは私だけだろうか・・・?
2013年11月04日




衣装を着た私


悠久の灯

 以前住んでいた太宰府市で毎年行われるイベントで私の大好きなものに、天満宮の一帯を行灯で照らす催しがある。今年は仕事が重なってどうしても足を運べなかった。今では電球や、さらに進めばLEDと言った便利で大変明るい照明が私たちの暮らしを支えてくれているが、至極稀にであるが、昔乍らの、蝋燭の灯りに触れると何故だか穏やかな気持ちになってしまうのは不思議な感覚である。随分贅沢なことを言っているのは承知しているが、たまにはそういった心安らかな気分を求めて昔ながらの行灯の灯りを体験するのも良いものである。
 私の生まれ育った博多の街でもそういった催しが開催されていて、今年は博多の総鎮守である櫛田神社を中心に行灯アートが展示されていた。

 良く工夫もされていたし、やはり何よりも蝋燭の明かりが心に温かい。すごく素敵なイベントであった。
 しかし!わが春日市も負けてはいない。10月26〜27日は春日市民のお祭りである「春日市行灯祭り」が開催される。

何カ月も前から準備され趣向を凝らした行灯が用意されている。私もお手伝いとして行灯の点灯や展示品の監視と言うお仕事をさせて頂いた。市内の小中学校から団体で出展されているものもあり来場者もとても多かった。

 実は、このお祭り、3年前まで真夏に開催され、主なイベントは花火の打ち上げであった。しかhしながら警備の問題等もあり本来の行灯に親しむ祭りに方向修正されたものだ。花火がなくなり目玉がないとご立腹の方も当然いらっしゃるだろうし、今の祭りが何を目指しているのかわからないと言う声も当然耳にする機会も多い。ある意味もっともなご意見である。しかし、未だ軌道修正を図って3年目である。当市に密着した祭りの形を其々が意見を出し合って、それを素直に聞き入れ模索していけばいい。現時点においても関係者は大変なご苦労をされている。それを踏まえた上であれば建設的な意見はあって然るべきだ。ただ、いろんな文句はあろうが、蝋燭で燈された行灯は間違いなく良い。心に染み入る灯だ。派手さはない。無いがそこから見つかるものもきっとある。ベストではないだろうが、ここからの発展形を目指せばいい。市民の心に届く祭りになって欲しいと私も願っている。ゆっくりした気分もたまにはいいものだ。そうつくづく感じた秋の夜長である。
2013年11月01日







教員削減案

 秋の臨時国会の真っ最中である。来年度の予算編成に向けてすでに水面下での折衝が行われているようである。消費税も上げる。。景気も回復させる。この一律全く相反する政策が実行できるのかは甚だ疑問である。今後提案されるであろう様々な施策をきちんと見極める必要がある。
 そんな中、常に国債残高と円の世界での信用のみに拘り続ける財務省が、今後の財政事情を鑑みた際に効率化し、削減していくべきものとして、教育に掛かる費用を挙げ、今後数年間で教員の数を1万4000人程度削減するべきであるとの提言を打ち上げた。
教職員定数の14,000人削減案を財務省が主張 文科省と対立
 財政がひっ迫した状況であると言う主張は解る。いや、むしろ今更何を言っているのか?と言う感さえある。であるが故に、膨らみすぎる社会保障を賄うべく方法論が正しいとは到底思えないが消費増税を行うのであろう。しかもその政策と両立が非常で困難である景気の向上を政府が目指すのも、偏に国債の発行残高を減らしたい、その1点である事も解る。税率をいくら上げても景気が衰退すれば税収は伸びない。これは自明の理だ。景気が、経済が良くなるために行なうべき施策は確かに色々と考えられよう。しかし、我が国のように国土も狭く資源のない国にあって、今後の経済の鍵を握るのは人材育成以外には有り得ない。私は教職員の、況してや組合の肩を持つつもりなど毛頭ない。働きもしない教職員を無駄に抱えていても教育や学力のレベルが向上するわけも無い、と言うのは全く持って正論であろう。しかし、国の進むべき方針の下に政策が決定されるのが本来の姿であるのならば、この国の現状から教育費を削減しようとする役所の考えが私にはまったく理解できない。目指すべき国の姿と、それに密接に連携する教育の在り方の議論も無しに、ただ現状の経済状況のみが優先するようなら、申し訳ないがこの国に未来などあろうはずもない。未来を見据えて、その中で求められる国の制度を議論もしないと言うのであろうか?経済や企業を支えるのはあくまでも人だ。この事を絶対に忘れてはいけない。
2013年10月18日







国会論戦

 秋の臨時国会が開催されている。首相の所信表明演説が終わり現在は各党の代表質問が行われている段階だ。はっきり言って、全く盛り上がりには欠けているし、マスコミ報道もの多くもそれを指摘している。
対立軸を示せない国会論戦
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO61186290X11C13A0EA1000/
 確かに目下のところ政権が掲げる経済政策も、一応は、見た目には、ではあると私は思っているが、それでも数字として成功をしているし、韓国、中国とのどうにも改善しない外交問題はネックではあるが、さほど目につく失点も無ければ支持率も高い、そんな政権を数も圧倒的に少ない野党が攻撃できるはずもない。況してや現政権が抱えている問題を論うのであれば、それは即ち政権交代時の現在の野党時代からの継承である以上文句も言えない。加えて自分たちの立ち位置すら明確に出来ないで数が少ないうえに野党が対立を繰り返す有様では、それは政権与党としてはこれほど楽な国会は近年なかったのではないだろうか。それに実際のところ、問題がないならそれはそれでいい話でもある。無理に対立しなくても良い。若干迫力に欠ける気はする。
 大切なのは、まあ問題があろうがなかろうが、国会で論戦が繰り広げられた際に、自分の考えとは違う事を聞いて「尤も!」と翻意する気があるかどうかだ。これを表して「翻意した」と取るか「柔軟である」とするかは意見の分かれるところではある。しかし、意見が変わり得る事を前提としない論戦など正に時間の無駄だ。ガチガチのイデオロギーのみをぶつけ合ってその果てに数の理論のみがまかり通るなら、実は国会での審議など一切いらないことになる。対案を示してそれに柔軟に対応する気がないなら国会自体が極めて虚ろなものに成り下がるのだ。相容れない意見も実際ある。しかしそんな人からも傾聴に値するご意見を拝聴する場合も間違いなくある。億を超える人がいる以上、環境や考え方もそれだけの通りある。その中で多くの意見を受け入れる。そんな議論の場所であってほしいと思うものである。。
2013年10月13日







誤解

 何故と言う訳でもないが、声を掛けられてら絶対に断れない人間から「イスラムの文化について学ぶ会を造ろう」との仰せがあった。私は基本「ハイ」と答えるしかない。しかし、よくよく話を聞いてみれば「これから日本のゲートウェイとして伸びていく福岡と言う街で、イスラムの事が解らないで何が出来る」とのご意見は至極尤もである。そんな訳で私も発起人に名を連ねて「イスラム文化を研究する会」を見切り発車であるが立ち上げた。第一回目の会合を、福岡の最も歴史ある文化会館で、九州大学において教鞭をふるわれているイスラム文化の第一人者の清水和裕教授に御講義をして頂いた。

 宗教の何を信じている訳ではないが信じていない訳でもなく、非常に興味のある分野であるので以前からそれなりの知識は持っているつもりであったが、やはり専門家の先生のお話には目から鱗の話が幾つもあった。たまに真面目に描く私のブログにも想いを書いているので良ければ見て頂きたい。
さかき朋之公式ブログ 「勇気」
http://ameblo.jp/sakaki-tomoyuki/entry-11631341482.html
 何についてもそうであるが、人間は基本的に自分と違うものに対して恐れを抱く。それはその弱さゆえの怯えだ。見えない敵こそ大きく感じその陰に怯える。人は知らない事に恐怖し、その恐怖を打ち破る最も簡単な手段として数を頼みそれを攻撃することで排除しようとする。偏見や差別はいつもそこから生まれる。まずお互いを理解する事だ。極めて難しい話だがそこからしか何も始まらない。考えは相容れないかもしれないし友好関係は取れないかもしれない。しかし、理解が出来れば攻撃する必要もない。まだまだイスラムの文化に家彼らを支配している価値観と言うより宗教観をすべて理解などできてはいない。しかし、その努力がいつか世界中で花開くときは来るのだ。当然世界中にはい様々な思想の人がいる。しかしそれを十羽一絡げで括るのは極めて危険な行為だ。その事を改めて感じた貴重な時間であった。世界中の人口の三分の一を占める巨大な宗教だ。今後も勉強を続けて行きたい。
2013年10月08日







危うい気分

 安倍首相が来年4月から所費税率を8%に引き上げる決定を行った。これについては私は数年前から反対の立場をとっているが、決まりとしてそうなると言うのであれば止むを得ない。この先に非常な困難が待ち受けている事だけは予言しておきたい。しかし、これを行えると言うのも現在の安倍首相と言うよりも政権が、圧倒的な世論に支えられているからに他ならない。現に、消費増税を発表した直ぐ後に行なわれた世論調査でも65%近くの人が政権を「支持する」としているのだ。当然政権は強気に政策を推し進める。私でもそうするだろう。正に鬼に金棒だ。しかし、いつも言うが、この世論の危うさを人は決して忘れてはならない。
消費増税支持51% 景気腰折れ懸念約6割 産経世論調査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131007-00000523-san-pol
 消費増税について約半数の人、即ち50%以上が、この増税の決断を「評価する」のだそうだ。私にはちょっと信じ難い数字であるが結果として出ている以上しょうがない。しかし、これに続く質問で、「景気は中折れすると思うか?」に対して6割の人が「そう思う」と答え、「増税の際は買い控えを行うか?」についても約6割が「行う」と答えていると言う。これは大いなる矛盾だ。消費増税は何よりも税収の確保を目指して行うものだ。であるのに、景気は息切れをすると言うか、自らの消費性向にブレーキを掛けるようでは税収など増えるわけも無い。政策の結果、政策が描いたんだ結果以外の物を想像しておいて「評価する」も無いものだと思う。
 後半部分の世論調査の結果が示している通り、消費者の購買意欲が下がる以上間違いなく景気は後退する。そうなれば当然モノの価格は下がりデフレは今一度進行する。加えて企業の業績は伸び悩み所得税や法人税も目減りする。ならば「評価」などできるわけも無いのだ。この危うさは一体なんだ?
 メディアを味方に付けた劇場型の政治手法では一時期の圧倒的な人気は得られても歴史の評価には耐えられない。解っているのなら、国民ももう少し好き嫌い的な感情論ではなく冷静な判断で個々の政策やそれを行う政権への評価が求められるのではないかと思うが如何であろうか?
2013年09月29日







判決

 私のような門外漢が今更言うまでもないが、日本は法治国家である。人間の行動は憲法を大きな柱とする種々の法律によって細かく規定され、様々な係争は裁判によって争われることになっている。そしてこの裁判も時間の経過まで含めて三審制度が取られていることはご周知の通りだ。非常に優れた制度であると思うが近年、この制度の上に胡坐をかいたような首を傾げたくなる判決が相次いで起きている。
 先日、あの体罰が原因だと思われる生徒の自殺と言う痛ましい事件が起きた兵庫県の高校の問題で第一審の判決があった。体罰に対して執行猶予つきではあるが有罪判決が出ていた。
桜宮高バスケ部顧問に有罪判決「体罰効果的と盲信」大阪地裁
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130926/trl13092614030002-n1.htm
 大変衝撃的な事件であったし、訴えられた遺族のお気持ちは痛いほど解る。加えてこういった事件を受けてと言うのは確かに遅きに失した感がなくはないが、体罰は絶対に今後許されないと言う教育現場における認識が出来たことも一切否定はしない。しないが、これまでの教育現場やスポーツ等の指導の場面においてどこか精神論的な体罰まで含めた指導の在り方が容認されてきたのは紛れもない事実だ。その社会的な風土と言ったものを全てこの指導に当たった教師に押し付けて済むと言う物でもあるまい。遺族感情にしてみれば当然溜飲を下げる判決であろうがこれがまかり通るのならば日本中の教師と言う教師はすべて有罪判決を受けることになる。それは余りにも合理性を欠いている。勘違いしないで頂きたいのはこの裁判の判決のみを捉えておかしいとか、被害者側の意見を否定しているのではない。ただ、最近極めてよく見られる地方裁判所の判決として、明らかに裁判官の判決に至る意図が「どうせ控訴されるのであればそこでしっかり争ってくれ!私は好きなことを言う」と言った、判例や法の精神からしても明らかに矛盾した、まるで無責任な判決が多く見られる。ある意味問題提起と言えなくもないが、本来ならば変わるはずの無い法の解釈を捻じ曲げてまで控訴に持ち込ませる判決が三審制度の趣旨だとは思えない。これだといたずらに時間がかかるばかりだ。わが市でも到底社会的常識や通念上信じられないような民事裁判の判決を食らったことがある。悪戯に期待を持たせ被害者の感情を弄ぶ事にも繋がりかねない。しかも報道はセンセーショナルな部分ばかりを社会に発進する。誤解が世に蔓延る事にも繋がりかねない。地方裁判所でも最高裁でも決して文句をつけられない完ぺきな判決を出すべきなのだ。そんな判決のような気がしてならない。いかなる場合であっても判決は重いのだ。その事を今更裁判官に訴えなければならないのならば、現行の法制度は全く機能してないと断罪せざるを得ない。全てとは言わない。が、地方裁判所の判事には今一度法の精神が何たるかを今一度胸に手を当てて考えて頂きたい。
2013年09月17日







法の下の平等

 これまでも再三再四議論となってきた民法で定めるところの所謂非嫡出児の遺産相続について結婚してできた子供との間に差が生じるのは、法の下の平等を規定した憲法の趣旨に反するとして、最高裁判所が現行の民法は違憲であるとする判決を下した。
「規定は違憲」非嫡出児の相続格差で最高裁判決
 そもそも生まれてくる子供は親を選ぶ事は出来ない訳であるし、生まれた環境において差別が生じると言うこと自体がおかしかった訳であるから、その意味において今回の判決は結果論として妥当であると言える。
 しかし、若干引っかかるのは、この事が「世界の潮流である」とか、「多様な価値観に対応し」となると首を傾げたくなる。今回の件がそうだとは言わないがたとえ世界の流れと違っても、それが我が国の伝統や基本的な価値観を形成するようなものであるならば何としても守るべきであるし捨ててはならない物のはずだ。何度も言うが、今回の件で子供に一切の罪はない。しかし、このとはつまり、この国がこれまで守ってきた「家」の制度の崩壊の序曲でもある。意識的に飛躍的に判断するならばこれはある種の倫理観の変更でもある。何も財産で相手を家庭に縛り付けておく訳ではないが、こうなるのであれば何も家に結婚してしがみついておく価値はないと判断する人が出てきたとしても何ら不思議ではない。「一家で力を合わせて頑張りましょう!!」なんて言う概念は、男が勝手に外で作ってきた子供にいとも簡単に財産分与の段階で持ち去られる事にだって繋がりかねない。絆や生活の基礎をどこにおくのかが今後はそれぞれの良心のみに委ねられるわけだ。まあ、それでも今回の件でも悪者が誰かだけは実ははっきりしている。家庭を顧みず、身勝手に外でふるまう男である。これが全ての責任を経済的にも道義的にも取れるなら良いが絶対にとれやしない。倫理観や価値観まで変える男の身勝手がこの国の形を変えると言うなら、何とも呆れた話である。。
2013年09月03日







秘密保全法

 次回の国会において「秘密保全法案」が審議されるらしい。国家が守るべき機密事項に関してこれを漏らすものに対して最長で懲役10年の刑を科す内容になっているそうだ。
 機密保全法案の概要判明 公務員に最高懲役10年
 正式な名称は「特定秘密保護法案」となるらしい。この中では大きく「防衛」「外交」「安全脅威活動の防止」「テロ活動の防止」の特段に公になっていない物を秘密の対象とするそうだ。この件については私のブログでも一度触れているのでご覧頂きたい。
 国家が、その国民の生命や財産を守るために、絶対に秘密にすべき事柄は確実に存在する。報道や表現また国民の知る権利があったとしても公共の福祉が優先されるわけであるので、公表されることでそれを脅かす恐れがある事項に関しては機密事項があるのは当然であろう。しかし、問題はこの機密を誰が決めるのかと言う問題はある。時の為政者が自らにとって都合の悪い事をして「機密事項」と定めたのであれば、その人間の不正を正す告発すらも法律に抵触する行為となり有罪となってしまう。これが社会にとって正しい事であるとは思えない。そもそもの基準が間違っている場合、それでもこれをして秘密と言うのだろうか?線引きがあいまいであるが故に、一つ間違うとこの法律は時の為政者にとってのみ有益な法律になりかねない危険性を孕んでいることを認識すべきではないだろうか?
 国家にとって有益な秘密は守るべきだ。しかしその判断はそれこそ個人個人で違う。解釈で如何様にも使い方が変わるような法律は本欄造るべきではないと思うのが正直な感想である。
2013年08月22日







集団的自衛権

 安倍内閣がこれまでも集団的自衛権の行使に関して前向きであるとされる小松前外務官を起用する等、法的解釈としての運用に前向きのようである。
 今更言うまでもなく、集団的自衛権の行使とは、我が国と同盟関係にある国が攻撃を受けた際に、自らも自衛権として攻撃を行った敵に対して自衛の為の武力行使を行う事である。本来の、と言うよりも日本以外のすべての国に於いては、自らがその戦闘に加わるべきだと判断を行ったのであればそれを行なえば済むことだ。しかし、我が国には憲法第9条によって自衛のため以外の戦闘は出来ないことになっている。その為、この自衛権と言う、国家に対して自然権として付与されるこの権利の行使がどこまで許容されるのかが大きな問題となるのだ。
 国連活動における自衛隊の派遣はどうなる?沖縄の米軍基地への攻撃をどう対処する?如何にも明日起きてもおかしくない事例が目白押しだ。また、日米安保のもと、日本に対する攻撃に米軍が応えてくれるのかも甚だ疑問ではあるが、その大前提としてこっちは逆の場合指を咥えているのに、あちらにだけはお願いと言う身勝手な論法が通用するのか?と言う問題もある。心情的に確かに悩ましいところだ。
 集団的自衛権行使の容認 憲法解釈変更は脱法行為
 http://mainichi.jp/feature/news/20130820dde012010010000c.html
 しかし、勘違いをしてはいけない。こういった問題を解釈のどうこうにすべきではない。国家の在り方として自衛の範囲をどう定めるか、軍隊をどう定義するか、そうの上で同盟関係をどこの国と結ぶのかと言ったことは、解釈の問題で解決するのではなく、憲法を国民的な議論のもとで改正するなどして向き合う問題であるはずだ。なんでもそうだが、こういった国家の基幹に係る大問題をいつも小手先の誤魔化しで先送りしてきた付けが現状ではないか。なのに更に小手先の解釈の変更を行うと言う神経が理解できない。実際、憲法改正の議論を進めるつもりなのだろ?ならばそこで堂々と武力を持ちうるのか、自衛の範囲をどこまでと規定してその行使をするのか、その際には国民にどういった負担を強いるのかを白日の下に晒すべきではないか?緊急事態に係る法整備も必要になろう。もしかすると徴兵もあるかもしれない。すべてを否定はしない。しかし、聞こえの良い、威勢のいい掛け声だけで、実態をひた隠すのであれば、それはフェアではない。 私は自衛のための軍隊やその手段としての武力行使は時に必要であると思っている。9条絶対擁護派ではない。しかし、戦争は怖い。考えただけでも恐ろしい。その感性を持って議論しなければこの国は大きく道を過つぞ。戦争を知らない世代の、大変申し訳ないお坊ちゃまが、そういった恐怖や痛みを知りぬいた上で、覚悟を以てこの議論に及んでいるとはどうも思えないのだ。
 第二次世界大戦終了時のドイツにおいて「我々は戦争の恐怖を知らない軍曹如きに国を目茶目茶にされた」と嘆いたと言う。しかし選んだのは国民だ。その轍を踏まない事を何故か切に願う私である。
2013年08月09日







労働者派遣法見直し論議

 厚生労働省の研究会は労働者派遣法の見直しの柱として、現在へ件期間に制限のない26業種を撤廃し、全ての業種で派遣期間は3年とし、特定の個人との契約期間を3年の上限とする方針を打ち出しているらしい。
 これをもって改正と呼ぶのかは甚だ疑問である。
 派遣労働 最長3年が妥当の案 厚生労働省研究会
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130806/k10013569471000.html
 私は実は、この労働者派遣法が設立した当初からこの仕組みに大いなる疑問を持っていた。確かに企業の国際競争力が求められる中にあって、企業が人件費の削減を求めるのは必然である。しかし、如何にコストの削減を求めたとしても闇雲に切り捨てて良い物とそうでないものはある。安ければいいと言った経済至上主義に何の理があったであろう。企業が先ず育てるべきは人材であり、併せて良き消費者であるはずだ。この原理に最も反する制度が派遣法である私は思っている。「一つの企業、一つの価値観に囚われない自由な働き方や生き方」との触れ込みで導入された制度が、これまでのライフスタイルを変えるのではなく、ただひたすらに破壊してきた経緯は今更述べるまでも無い。煩雑になっている今の制度を修正すべきと言うが、ならば、原点に立ち返って派遣などと言う企業に大方の利しかない制度の廃止まで含めて考えるべきではないか。はっきり言う。雇用は原則正社員で行うべきなのだ。これを可能にし得る社会の在り方を模索する前に、常に低き方へ妥協しているなら雇用環境は改善するわけはない。雇用が改善しないならば経済が上向くことは絶対にないのだ。
 極めて特殊な能力を持つ者は、当然いかなる環境下においても個人の能力を発揮して生活をすることが出来る。しかし、殆どの人間はそうではない。その事は何よりも企業が一番知っている。その極めて単純な理論に目を向けず、甘言に踊らされた結果、現在の社会システムがどうなっているか今一度直視すべきだ。目先の利益に拘るあまり企業が最も大事にすべき競争力が低下しているのも、何より人を大事にしないからだ。「人」を育てない企業に未来などない。当然「国」もだ。その事を念頭において議論すべきである。
 
2013年07月31日







生活保護費引き下げ開始

 政府はこの8月から生活保護費の平均2.5%の引き下げを行う。これは膨らみ続ける扶助費に一定の制限を設ける事と、最低賃金のもとで労働基準法に定められた所定の時間を働いている所得よりも生活保護費の方が高くなると言う逆転現象を解消する狙いがある為である。
 生活保護費一部引き下げ始まる
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130801/t10013456271000.html
 生活保護と言うこの制度が持つマイナスのイメージは一般に拭いきれないのは現実であろう。非常に悪い言い方をするのであれば、「働かなくてもお金を貰えるのであれば、誰も働きはしない」と言う論法は至極尤もである。実際、現実にあってはならない事であるが、そういった制度を悪用した所謂「不正受給」が後を絶たない事もこの制度に対する負の見方を強くしている。況してや、真面目に働いて得られる金額より与えられる金額の方が多いのであれば、そういった思いが頭をもたげるのも無理はない。
 だが、果たしてそれだけで片付けて良い問題であろうか?世の中には、我々の、世間一般の常識が全く及ばないような、大変失礼な言い方であろうが、凄まじい境遇に臨むと臨まざるとにかかわりなく追いやられた人がいるのは事実だ。頼るすべもなく、何ら学ばせても貰えず、もしくは障がいや病気等の理由で、働きたくても働けない人も厳然と存在するのだ。これは、マイナスのイメージや犯罪行為とは全く別のものだ。今回措置で本当の意味で呷りを受けてさらに生活が困窮するのは、むしろそういった、本当に援助を必要としている人たちになりはしないだろうか?
 物価は現時点で良い悪いの判断をするつもりないが、確実に上がっているし、現に政府や日銀の物価目標は2%だ。更に消費税が上がれば3%が可処分所得に影響する。単純に5%出費が増えると言うのに保護費を削減してどうするのだ?制定賃金とのバランスが取れないなら、むしろ現政府の方針は労働賃金の上昇こそ最終目標であろう。ならば、そちらを上げればいい。何故、逆の政策をとる。真に必要な人に適正な金額の補助さえ行なえれば、間違いなく総額として抑制は出来る。これを、いつものように取りやすいところから抑えるやり方をすればとんでもない事が起きる可能性もある。あまりに安易に過ぎる。力なきものが泣き寝入りをする、そんな社会が目指す社会像でもないだろう・・・
 
2013年07月25日







TPP交渉

 アメリカ下院の承認を得て、ようやく日本がTPP交渉に正式に参加した。
 私はもう2年前になるが、このTPPの話を聞いた時に「即刻交渉に参加すべき」だと思った。勘違いしないで頂きたい。TPPに参加すべきとしたわけではない。交渉に参加すべきだと言ったのだ。このTPPがアメリカを中心とした、と言うよりむしろ、アメリカの為の経済貿易構造の構築であろうことは容易に想像できた。グローバル化等と言ったお題目を述べて、世界経済での失地を回復したいことは目に見えている。しかし、現実に、如何にアメリカが巨大であったとしても、その一国で世界経済の主導権を握れるほど、現在の市場は小さくない。彼等にとっての飴と鞭を巧みに使い分け、なんとしても自らのペースで主導権を握ろうと躍起になるはずであろうと思ったし、実際そうしている。そういった、「世界は一つ」的な理想とは程遠いアメリカのご都合主義は日を追って露骨になってきている。実際、多国間の協議であるにも関わらず、わざわざ「アメリカの議会の承認」が必要なことも極めて遺憾であるし、その協議に対する尊大な態度は腹立たしい限りだ。しかも、個別の品目等についての交渉の後戻りは一切させないなどと不遜な態度を取り続けている。
 日本に「「再交渉、蒸し返し認めぬ」 TPPで米
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130718-00001480-yom-bus_all
 後から交渉に参加するものは、只々従えと言った、こういった不具合を避ける意味においても、交渉には参加をしておくべきであったと思っている。大変申し訳ないが、私は個人的には、農協に代表されるような加盟に反対する業界が主張するように、TPPに加入した途端にその業界が破たんすると言う事はないと思っている。過去の牛肉やオレンジや米のように、根本的な品質が違うのだ。すわ壊滅!にはならないと思う。逆に、参加を促す団体にも同様に、もくろんでいるような利益の向上はあり得ないと、これは断言する。所詮、国内市場や労働力を大事にしない企業に明日などない。その意味で、徹底的に交渉する中で、最善を導き出せばいいと思っていた。しかし、これまでの交渉の中で、参加国に課せられるとしたISD条項がある以上、内需がこれほどまでに疲弊した我が国が参加するメリットは一切なくなってしまったようだ。
 TPPとは
 http://www.toha-search.com/keizai/tpp.htm
 当国の内需を刺激する為に、税金を利用して行う公共事業への不参入をよその国の法律で審査されるなどと言った無法が通るわけも無い。まるで極東軍事裁判だ。この条項が決まる以前に、交渉に参加をするべきだった。それを超えるメリットがあるなら話は別だ。しかし、国益を超えてまで優先する経済などありはしないし、それは主客転倒も甚だしい。決してなし崩しに参加を決定する事ないよう、推移を見守りたい。
 
2013年07月17日







日の丸・君が代

 先日、最高裁判所は、東京都が、入学式や卒業式の際に国旗に向かっての敬礼や国歌斉唱の義務を怠ったとして停職処分を言い渡したのは違法だとして、職員から損害賠償を訴えられていた裁判で高等裁判所で、都の行為は裁量権の逸脱であるとされていた判決を不服としていた上告を受理しない決定をした。これによって東京都の職員に対する損害賠償が確定する事となった。

 君が代不起立、初の賠償確定ー最高裁都の上告受理せず
 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201307/2013071200815&g=soc

 この判決だけを見ると、公務員に対する国旗に対する掲揚や君が代の斉唱を義務付ける事は、憲法によって保障されている思想の自由を脅かす行為であり、これを拒否することは妥当であるように思える。しかし、この判決の難しさはそうとばかりは言い切れない事だ。過去において例えば、君が代を歌わないように働きかけ職員に対しては威力業務妨害での有罪が確定しているし、そういった職員の情報収集を行う事も適法であるとの判決も出ている。

 君が代不起立呼び掛け有罪確定へー最高裁被告の上告受理せず
 http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011070701000612.html
 教員らの敗訴確定=君が代不起立の情報収集、最高裁
 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201304/2013041900342&rel=&g=

 今回の件に関しては、いきなりの停職処分が裁量権の逸脱であると、むしろ都の手法を批判した形となっているのだ。思想・信仰の自由は当然保障されるべきだ。だが、公務員の場合それが一定程度制限されることもある。。況してや教員の場合生徒児童に対する影響の問題も当然あり得る。
 ここではっきりしておくが、私は「日の丸」が我が国の誇るべき国旗であると思っているし、「君が代」は世界で最も歴史のある、これまたすぐれた国家であると思っている。だが、そうとは思わない人もいよう。そもそもこれが嫌いな人に「好きになれ」等と言ってもそれは無理だ。が、私は少なくとも、自分の信じない物であっても、他人が崇拝する何かには敬意は表する。それは人間として当たり前のことではないのだろうか?その上で、自らの主義主張を行うのが大人の在り方ではないか?どうも、その当たり前がイデオロギーの前で御座なりになっている気がしてならないし、そういった争いを見せつける事が、少なくとも未来ある子ども達にとって、何かのプラスになるとは思えないのだ。
 どうか、今一度冷静な振る舞いをお願いしたいと思う私である。
 
2013年07月14日






私に似たはぐれペンギン
公共施設の奇跡!旭山動物園に思う

 全国市議会議長会の会議の合間を縫って、旭川市が日本に誇る施設「旭山動物園」を見学してきた。そう、あの今日本で一番有名な動物園と言って良いだろう。そもそもはここもご多分に漏れず、大いなる赤字を抱えた、所謂お荷物の公共施設の代表的なものであったと聞く。これをどのようにすればお客様が呼べ、赤字を解消できるかを考えに考え抜いた結果、今のような見せる施設に変貌を遂げたのだと言う。
 確かに、これまで動物園をそんな目で見たことがなかったが、間違いなく訪問してみて感じたのは、動物とみる私達との距離が近い。この事が、動物との親密さを増し、よりダイナミックに動物を感じる事が出来ている。画期的な展示方法であると言える。



 公共施設が持つ意味合いを考えると、間違いなく採算を度外視してでも、そういった施設がそこに存在することに意義があるものは少なくない。採算性が取れるのなら、公共が展開しなくても民間がその経営を行うであろう。赤字だから切り捨てるでは公共の存在意義を否定する事にも繋がる。しかし、だからと言って、際限なく、どこまでも赤字の垂れ流しが許されるはずもない。教育的な観点から、本来は赤字であっても止む無しと思われてきた動物園と言った施設が、運営の仕様によっては立派に黒字に転換できるという事を証明したと言うその一点に於いても、この「旭山動物園」は十二分に価値のある施設であるし、地方公共団体にとってはお手本とすべき、奇跡の様な施設であると私は考える。
 駆け足で見て回ったので、細部まで確かめる暇がなかったのは非常に残念だが充分に参考になった。また改めて訪問をしたい。
 ただ、一言だけ苦言を申し上げるのであれば、動物君たちは、人間が近すぎて非常にストレスが溜まるであろうから、どうかその点も是非フォローをして頂きたい。
2013年07月12日







高額賠償!!改めて知る自転車の怖さ

 先日神戸地方裁判所で、自転車で事故をおこし被害者に重大な後遺症を残したとして9250万円の賠償を命じる判決が出ている。金額の多寡は当然私の様な者が正当性の有る無しなど解るわけも無い。しかし、間違いなく教訓として胸に刻むべきは、免許も無く、誰もが手軽に利用することが出来る自転車も、これほどのリスクを背負った立派な乗り物であるという事を決して忘れてはならない!という事だ。
 自転車事故、思い賠償責任…一億円に「まさか!」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130714-00000477-yom-soci

 以前、私は一般質問の場において「自転車の利用に関する罰則付きの条例の制定を!」を主張したことがある。逮捕権を持たない我々が何らかの取締りを行う方法がないのかを模索すべきとしたのだが、それもこれも、こういった重大な事故を未然に防げたら、と言う思いからである。間違いなく自転車は便利だし、健康的だし、経済的でもある。しかし、当然何らかの危険は伴う。況してやこれに何の節操も無く利用して良いと言った誤解があれば、その危険度は加速度をつけて増していく。物理の法則においても「速さは重さ」だ。人間が歩む速度より早く走行できる自転車は、間違いなくぶつかればそれなりの重さを以てぶつかる。重大な事故につながるのだ。
 子どもへの教育も必要であろう。しかし何よりも、何ら罰則がない事を理由に無茶な乗り方をしている大人こそ今一度胸に手を当てて考えるべきだ。
 物を便利に使うも凶器にするのも人の心掛け次第である。
 
2013年07月07日







混乱〜エジプトに観る政治の難しさ〜

 「アラブの春」と呼ばれる各地での大規模な暴動と軍との衝突などを経て、本来失われてはならない人命までも犠牲にしてやっとの思いで掴んだ民主化運動からまだ一年も経っていない。初めての普通選挙による、文民の大統領が誕生し、これで間違いなく軌道に乗ると思われていたエジプトの国政が混乱の極みの状態にある。今現在の状況だけを見れば、昨年せっかく誕生した民主政権を軍がクーデターによって解任した、という事になる。しかし、どうも状況はそう単純ではない。追放された大統領は間違いなく、「アラブの春」以降に普通選挙で選ばれた民主的な政権である。多くの支持を得ていた。しかし、その経済政策に不満が募り、民衆は解任を求める大規模な集会を繰り広げていた。これを収拾すべく、元来宗教に対して批判的な立場をとるべきとされている軍が介入を行い、結果、大統領の解任と言う、形としては軍によるクーデターが決行された。そして現在は、その軍が指名した暫定政府の大統領をめぐる賛否で、また国内が騒然としていると言う。
 率直に言おう。何が何だかわからない。誰が善で誰が悪だ?いや、そもそも民衆は一体何を望んでいるのだ?
 エジプト政変 衝突拡大 シナイ半島も緊迫
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130707-00000076-san-m_est

 エジプトはアフリカの中でも歴史的にも経済的にも優等生と呼ばれるほど、言い方に語弊があるかもしれないが水準の高い国だ。ここが、これほどの混乱を繰り返す理由は一体なんだ?この問題を考える時に、「軍」の立場と、「宗教」の立場という近代政治学を語る上で決して避けては通れない、最も重要な問題に行き着く。そう、「政教分離」と「文民統治」は民主主義の基本のはずだ。しかし、現実に軍は必要であるし宗教も厳然と存在する。況してや「イスラム教」と言うこれまで虐げられてきたが故に強い信仰心を持つ会派にあって、これを政治と切り離すことが容易でない事は想像に容易い。そしてこれはエジプトと言う一国に限定された話ではない。世界に20億人は存在するであろうイスラム教徒すべてに係る話であるし、未だに化石燃料に頼らざるを得ない世界経済にあっては、正に喉元に刃物を突き付けられたような切実な問題である。間違いなく、今暫くこの混乱は続く。いやむしろ、その宗教が持つ特徴を考えれば、そして軍が持つ軍事力とその影響を鑑みれば、永遠にこの混乱は収まらないのかも知れない。決して対岸の火事ではない。政治における「宗教」と「軍」の在り方の問題はどの国にも、当然日本でも起こりうる問題だ。他山の石として今一度突き詰めて考える必要があると思うが如何であろうか?
 
2013年07月02日







袋叩き

 橋下大阪市長や復興庁参事官、また岩手の県会議員などネットでの発言がもとで大変な問題になる事件?が相次いでいる。実際に何かと言えば最近は「ネットで不適切発言」が取だたされるようになっている。不用意な発言で物議を醸す個人の資質の問題があるのは正しい物の観方ではある。しかし、果たして今のこの「失言=ネット炎上=ブログ等閉鎖=謝罪会見」と言う一連の流れが、本当に国民と言うか、知る権利を持った人間にとって利があるか、と言われると違う気がしてならない。
 ネットの最大の利点はその圧倒的な情報収集力にある。今では私の様なものでさえ、ネットで検索すればいくつもの項目でヒットして「誰某はどういう事をしている」であるとか「どういう考え方か」を知ろうと思えば知れる。選挙の際に「誰に自らの貴重な一票を投じるか?」を決定する際に「誰に入れようにも、誰が何を考えているのかわからない」と言う、賛成権行使の意思決定における、大いなる情報提供減にネットの世界は成り得る可能性を秘めている。

 インターネットと「死刑化」する社会
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujisiro/20130626-00025974/

 もちろん誰か特定を中傷する言動には目を光らすべきだ。しかし、一方で匿名の中傷は全くの野放しで、公人の発言には逐一「ふさわしくない」では議論に公平性を欠く。
 初めてのネット選挙ももう公示になる。情報を仕入れるべく自由な場であるべきネットの社会が特定のバイアス、即ち、言葉狩りの言論封殺の場であっては、ネットはその存在意義を見失うことになる。
 世の中で、圧倒的な数の理論ほど恐ろしいものはない。そしてそれは時の雰囲気で暴走することも十分にあり得る。ネットを使うものは、何よりも自らがその世界に埋没しないように気を付けるべきであると考えるが如何であろうか。
 
2013年06月21日







定数是正先送り

 今国会において審議を行い一定の方向性を打ち出すと各政党が意気込んでいた、裁判においても違憲状態にあるとされている国会議員の定数是正の問題が、結局各政党間での調整がつかずに、次回の国会の場へ議論を先送りすることとなった。

 定数削減今国会は断念=3党合意反故にー衆議院選改革
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130620-00000095-jij-pol

 当然、多くの識者と名乗る人達から「問題の先送りだ!」「結局自分達の身を斬る改革は出来ない」と激しい非難を浴びるわけだしマスコミに煽られて多くの国民もそう考えるであろう。しかし、私は敢えて言わせてもらいたい。
先送りになって良かった
 当然、所謂「一票の格差」の問題は早急に是正しなければならない。参政権も含めた法の下の平等が脅かされる状態が続く事を良しと考える馬鹿はいない。しかし、それと「定数の削減」は同一に行われる話ではない。「決まらない政治」を払拭する為に定数を減らし、財政も切り詰める。一見尤もに聞こえるが、政治が決められないのは数のせいではない。質の問題だ。財政を切り詰める目的と、国会に届く貴重な意見を減らすことが同義であると考える事がどうかしている。私は、例えば共産党のイデオロギーに同意は全くしない。しかし、時に「至極もっとも」と感心させれる意見を拝聴するのも事実だ。これを定数を削減を行なえば聞く機会は明らかに減っていくという事だ。これで正しい世論の形成などできるのか甚だ疑問だ。選挙前はどの政党もその政策が実行された際の問題点よりもいかに世間に対してよく聞こえるかに重点を置いて行動を行う。とある政党は明らかにそれのみを意識して「定数180減」を打ち上げていた。一歩間違えば、一党独裁の国会になる。それでいいのか?財政的な問題で「自らの身を斬る」ならほかにいくらでもやり様はある。定数を減らす行為が民主主義の議論形成において一体どういった悪影響を及ぼすかを国民もよく考えるべきだ。選挙目当てではなく、落ち着いて議論を行った方が良い。その意味で、私はある意味全く違う意味ではあるが、性急に答えが出なかった今回の問題にある種の安堵の念を抱いている。皆様も良く考えて頂きたい。
2013年06月13日







とある議会の解散について

 福岡県の中間市でおかしな事が起きている。昨年の末から、市の福祉課、これは生活保護を扱う部局になるが、ここで市の職員が生活保護費の不正受給に深く関与すると言うあってはならない不祥事が起きている。この事件に関連して先月3人目の逮捕者が市役所から出たらしい。なんとも情けない、そして行政として非常にお粗末な事の顛末である。執行部と言われる所謂市長を含めた幹部職員は猛反省をして頂きたい。頂きたいが、これに対して市議会は「市長と同等の権利を持つ議会として十分なチェック機能を果たせなかった」として議会の最終日に議会解散の議案が提出され、なんと賛成多数でこれを可決。解散が決定したと言うのだ。当然、議会は出直し選挙に突入する。

 福岡・中間市議会が自主解散  初のネット選挙の見通し
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130608-00000009-asahi-pol

 この話を一見聞けば「市役所内での不祥事に鑑み、自らの襟を正す態度を示した議会は素晴らしい!」となるのであろう。しかし、これは全くの筋違いだ。議会は執行部が提案した案件に関して責任を持つ。今回の件は職員の不祥事だ。これを監視などする権利も義務も議会は持ち合わせていない。逆にこんな権利があるとして、例えば議員が職員の職務状態などをチェックなどしようものなら、これが越権行為であるし違法だ。地方議会と首長の関係は憲法にも規定されているし、地方自治法においても明文化されている。今回の件に関して、行政を代表する市長に監督不行き届きの責任が多少あるにしても、議会にその責任は一切ないしあってはならないのだ。しかも今回の件は明確な犯罪だ。悪い喩かもしれないが、仮にある市の職員が飲酒運転で逮捕されたらその度に議会は解散すると言うのか?そんなことで税金を使われていては、それこそいくらあっても足りはしない。「これに賛同した方が選挙では有利」とでも思ったのであろうか。そもそもありもしない権限をあるかに誤解してそれに賛成するような議員が議会運営を行っていること自体が問題なんだが、それには気が付かれないのであろうか。パフォーマンスに多額の税金を投入して、振り回される市民がたまったものではない。これでいいのか地方自治!?そう素直に思う出来事である。
 敢えて言おう。レベルが低すぎるぞ!!
 
2013年06月10日







薬ネット販売解禁

 先日安倍首相が薬のネット販売に関して全面解禁とする意向を示した。これによって現在市販されている薬の内99%がネットで自由に販売できるようになった。確かに、この事が実現すれば大いなるメリットはある。これまで過疎地等で薬の購入が困難だった人や、移動の手段を持たなかったお年寄りには随分と利便性が向上するであろう。また、ネットによる販売によってスケールメリットも生じ、薬の価格下落にもつながる可能性もある。意見喜ばしい、正に規制緩和の象徴と言えよう。
 しかし、物事には表があれば当然裏がある。薬と言う、本来体内で製造しえない異物は、その利用方法等を誤れば人体に大いなる影響を及ぼす「毒」と成り得ることを決して忘れてはならない。対面販売であったが故に自制の効いていた薬の購入に対する一種の抵抗感が薄れた時にいかなる影響、すなわち害が出る事を深く議論を尽くしたのかは甚だ疑問である。

 市販薬:ネット販売解禁 利便性 期待と懸念
 http://mainichi.jp/select/news/20130606ddm008040030000c.html

 また、この事に関する会議の席で、楽天の三木谷社長の辞表提出と言う騒動もあったと聞く。政府関係者は彼に辞任をされることが世界市場に対して「規制緩和に後ろ向き」と取られる事を恐れたとも伝え聞いている。国民の健康を深く追及するよりも経済の、それも投資市場のイメージを優先させたと言うのであればこの措置に一体何の意義があるのか、私は首を傾げるばかりである。
 誰の為の「規制緩和」なのか?どうも、私にはキナ臭い匂いがしてならない。

 この事で、市民生活、特に健康面で影響が出る事は必至である。利便性ばかりではなく、薬が持つリスクの部分の周知徹底を市民には図る必要がある。この件に関しては、当市でもどう取り組むのかを執行部に確認する必要があると思われるので、今回の一般質問においてこの件は質問をさせて頂きます
 
2013年06月01日







住民投票

 5月26日に東京都小平市で都市計画道路の建設の是非をめぐって住民投票が行われた事はご存じの事と思う。
 結論から先に言うと、この住民投票、賛否を確かめるも何も「開票」すらされていない。全く意味が解らない住民投票となってしまった。
 いつもの手法からすると若干順序が違うが、この事について普段はふざけた事を中心に描いている私のブログに詳しく事の顛末や私の想いを書いている。お読みになられて頂きたい。

 さかき朋之「さくらブログ」:住民投票
 http://ameblo.jp/sakaki-tomoyuki/entry-11540736632.html

議会が議会での手続きや規則や慣例に囚われ、市民の為の熟議の場になっていない事は以前も書いた。自分たちが作ったルールの運用にのみに追われて自己満足しているようでは政治がよくなるわけもないし、有権者に認められるわけもないだろう。議会は今一度胸に手を当てて自らに課せられた使命を再確認すべきだ。確かにこれでは「議会不要論」が起こるのも致し方ない。情けない話だ。
 
2013年05月28日







資産公開

 「政治倫理確立の為の国会議員の資産等の公開等の為の法律」に基づき、昨年末の衆議院選挙で初当選した議員も含めた衆議院議員の資産が公開された。平均資産額の3228万円をどう捉えるかは議論の分かれるところであろう。

 資産公開:衆議院議員資産平均は3228万円 初の増加
 http://mainichi.jp/select/news/20130527k0000e010128000c.html

 ただ、当然、この数字を鵜呑みにするわけにはいかない。これは統計学の妙で例えば福岡県の17人の議員の場合、資産ゼロが7名もいるのにも拘らず、あのブリジストンの御曹司と、麻生セメントの御曹司お二人のおかげで、福岡県の衆議院議員の平均資産は2億円に手が届く数字となっている。分母の小さい標本の場合、そこで示される「平均」に大きな罠が潜んでいる事を忘れてはならない。マスコミが流す意図的な数字の操作と言っても良いだろう。
 しかし、全国平均で標本数が400と言う数字になった際の3000万円の個人資産は我々庶民からしても大きな数字であることは間違いない。羨ましい数字である。しかし、ここで一番問題とすべきは、この傾向が「大きな資産を持ったものしか選挙に出れない」であるとか「資産がなければ当選できない」と言った民主主義の根幹を脅かすような方向へ向かっているのではないかと言う危惧がある点である。そうだとすると、政治は庶民からますます離れていくことになる。決して僻むわけではなく、素直にそれを心配した記事であったが、皆さんはどうお考えだろうか?
 
2013年05月23日






注:館内は基本撮影禁止です
(特別に許可を頂きました)
図書館戦争

 相川浩の「図書館戦争」とは若干趣旨が違うが、公立図書館の在り方について大きな論争を呼んでいる「武雄市図書館」。これまでの、地方自治体の直接運営から、民間のTUTAYAにその運営を任せたことで様々な議論を呼んでいる。この件に関しては賛成・反対の両立場から様々なご意見があるようだ。「公立」の図書館故に守られている中立性や、個人情報の扱いの問題。民間手法故に取り入れられる新たな市民サービスの提供やコストの安さ。間違いなく長短両面があるのだと思う。
 
 公立「TUTAYA図書館オープン」佐賀県武雄市に
 http://book.asahi.com/booknews/update/2013040500005.html

 「百聞は意見にしかず」の言葉もあるので、先日、長崎方面に所要があった際にこの図書館を訪れてみた。
 先ず目に飛び込んできたのは驚くほど新しく美しい建物。これは見事の一言だった。また、館内に設置されたスターバックスも店内の雰囲気作りに一役買っている。元々書店である蔦屋が運営していることもあって、当然館内には図書の販売や、DVD等の貸し出しコーナーも設置されている。販売本と図書館の本は棚の色で区別されておりそれほど違和感はない。利用時間も夜9時までと伸びているのも民間なればこそと言えるであろう。
 先程も言ったように、賛否両論当然あるであろう。確かに厳密に「公立」の聖域を守るという意味においては反対派の意見ももっともである。しかし、世の中には「絶対」は存在し得ない。新しいものを取り入れていく勇気には敬意を表したい。しかし、確かに、公立の図書館において、いくら民間委託の期間中であるとは言え、まず何よりも「TUTAYAカード」の作成に係員が駆け回る様は、違和感がないと言えば嘘になる。いつも言うが、利益性を見いだせないならすぐにでも撤退するのが民間の行動原理だ。その際、器だけが残っても如何ともし難い。市民に大いなる負担を強いることになりかねない。この危険性は孕んでいる事を丁寧に説明する必要はあるのではないだろうか。随分とご自分に絶対の自信を持たれた市長であるとお見受けする。何に裏付けされたか解らない奇妙な自信がやたらと目につくが、まあ暫くはお手並み拝見、と言った所であろう。
 正直な感想を言えば、現時点で、私が関係する街に、この手の図書館はいらない、と思ったのが本音ではある。
2013年05月19日




保育事業参入

 金融庁が保育所の待機児童解消に向けて、駅前のビル等を多く保有する保険会社の財務上の条件を緩和して、保険会社が保育所経営に参入し易くする旨の規制緩和を検討しているという。

 金融庁 保険会社の保育所事業参入を検討 待機児童の解消の一助へ

 確かに待機児童解消は喫緊の課題である。この確立無くして女性の自由な社会参画はできないとのご意見もある。しかし、その解決の手法として本来保育所や幼稚園の監督官庁ではない「金融庁」による規制緩和が果たして正しいのであろうか。常々の私の持論であるが「規制緩和」の持つ理念を否定しはしない。しかしそれが行き過ぎた自由競争につながる恐れも内包している事を忘れてはならない。保育事業は国の教育の根幹にかかわるような、むしろ公に近いような事業である。この中で多くの学校法人などは、それこそ利益を度外視してこの事業に取り組んでおられたはずだ。ここに民間の大手資本が参入を行う。確かに近視眼的には待機児童数の解消は行われうるかもしれない。保育料の低減もあるかもしれない。しかし、勘違いしてはいけないのは競争原理の中で利益追求にのみ走るのが民間企業の存続の為の絶対条件だ。これを否定などしないが、そうである以上、逆に言えば利益が見込めないと分かった途端に身を引くのが民間企業である事を忘れてはならない。大手資本との競争の前にこれまでの保育所事業者が敗れることは想像に容易い。その後で、大手資本も手を引いたら、いったい誰がこういった事業を支えるというのであろう。
 先程も述べたが、教育に係る話は国家の将来像を見据えるうえで最も重要な話である。目先の事だけで国家100年の計を見失わないで頂きたいと思うが、いかがであろうか?
2013年05月17日




景気条項

 内閣府が今年1~3月期の景気状況を示す速報値を発表した。年率換算では3・5%増の数字であるらしい。マスコミでも連日「好景気を支える個人消費の伸び」をうたっている。しかしそうであろうか?少なくとも私には景気が上向いたなど、況してや収入が増えたという事実も無ければ実感など全くない。実際、個人所得は一切向上しているというデータ等ないし、むしろ円高の影響が出だすこれからの時期に個人消費に大きな影響が出て家計を逼迫することなど目に見えている。正確に現在の経済状況を捉えるのであれば、急激な株高と、円安の恩恵によって一部大企業の内部留保が増加してはいるものの、これまでの損失を埋めるには至らないが為に従業員の給与には反映されておらず、むしろ、原材料の値上げと今後控えている消費増税に備える形で買い急ぎの消費行動がGDPを押し上げているだけで、生活の実感として「景気が上向いた」とは、ほど遠い世界なのではないだろうか。
 しかし、政府はこういった指標を基に消費増税の際に考慮される「景気条項」をクリアしたと判断するであろう。これは非常に危険なことだ。
 常に言っているが、企業のみが恩恵を受けて、庶民には何の実感もない景気指標を判断材料として闇雲に消費増税に踏み切れば、実感として景気は激しく後退する。円安や株高によって受けた恩恵を給与として反映させた時に初めて本当の意味で景気は上向くであろうし、消費税を上げてもそれに庶民は耐えうるであろう。今、そこに勇み足を行えば経済はガタガタになる。
 政府にとって都合の良い数字がこういった大きな政策の前に示される時は、基本、、彼らの統計的な手法を疑ってかかった方が得策だ。これはこれまでもそうだったはずだ。
 皆さんも冷静な判断をお願いしたい。

 〈GDP〉来春の消費増税で失速か・・・成否は成長戦略に
2013年05月09日




解雇自由化

 現在国会に於いて経済界からの強い要望を受ける形で進んでいる話に、「解雇の自由化」に関する議論がる。これは、当然、現在ある労働基準法の範囲を逸脱するものではないとしているが、金銭の支払いによって解雇を今よりも雇用者側の権限によって自由に行えるようにしよううとするものだ。現在のグローバル化した経済の状況下にあっては、企業は世界で戦わねばならず、その為には世界で戦い得る労働市場の弾力性が求められるというのだ。
 この件に関しては当然であるが、これを推進する声と、批判する声が上がっている。

 解雇の自由化が進めば日本の企業は活性化するってほんと?
 http://wpb.shueisha.co.jp/2013/04/16/18504/

 解雇が自由化されると経験やスキルの無い若者がターゲットとされる
 http://yukan-news.ameba.jp/20130507-279/

 「まず、企業が生き残ることが先決!」は至極もっともな意見である。しかし、その為に企業が社会の公器としての使命を捨てて「人的資源」を合理化の対象としてしか扱わなくなった際に転落の一途を辿った道の踏み外し方は散々見せつけられてきたはずだ。人を大事にしない企業が人に大事にされるはずもない事は紛れもない事実ではないか。安倍政権下の経済政策が良いように作用して株価も連日最高値を更新している。企業の内部留保も史上最高額を記録しているらしい。しかし、それが労働者の賃金に跳ね返らないなら、況してや雇用環境が改善されないなら、この先に待っているのは、このもろ刃の剣の政策の負の部分、すなわち「ハイパー」付きの「インフレ」だ。景気は戻りようのないところまで後退する。
 「自由な競争を確保する為に更なる規制緩和を推進する!」
は、小泉政権下でも耳にタコが出来るくらい聞いた言葉だし、理念は正しい。
 しかし、確かに古い既得権益の柵を取り払うという理念は正しいが、その先に、ある一定の人間しか得をしない仕組みが、言い変えれば「規制緩和と言う名の下の新たな特権階級作り」がこれまでも繰り返されてきたことを忘れてはならない。 政治は言葉のフレーズや響きで左右されるものではない。その事は見極めなければならない。
 今後の推移を見守りたい。
2013年04月27日




憲法改正論

 安倍首相が憲法改正に並々ならぬ決意でいるようである。何よりもまず、憲法改正の為の憲法第96条の改正を行いたい考えのようだ。
 彼の言わんとすることは充分に解る。日本国民が考え出した憲法でもなければ、前文や第9条は明らかに国としての独立を危うくするような規定であるし、日本語としても辻褄が合わない部分もある。解釈の中で自衛権を行使するような国など世界中のどこを探してもないであろう。その意味に於いて、憲法を改正すべきであるという考えは私自身元々持っている。
 しかし、だからと言って闇雲に変えていい、であるとか、簡単に修正できるようにすべきだという議論は飛躍しすぎであろう。常々言うし、自戒の念を込めて言うが、世論は時として雰囲気に流される。間違いなく人はいや人類は成長していると思う。しかし、いつ何時、あの20世紀初頭のように沸騰するときの勢いに流されていかないという保証などない。人を信頼していないわけではない。それ以上に時代が作り出す空気が恐ろしいのだ。これに全て乗ることが「民主主義」であるとは思いたくない。
 それぞれが、徹底的に冷静な立場で憲法改正について議論を行い得る土壌が出来て初めて、次の改正へ向けた段階へ進むべきではないか。戦争放棄の破棄、軍隊の創設。どちらも私は反対はしない。しかし、熟議の上にそれが行われないなら、それほど恐ろしい事はない。行ったっきり帰ってこれないのも憲法だ。みな真剣に考えて頂きたい。

「憲法改正で初めて国民に憲法を取り戻せる。首相インタビュー」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130427-00000501-san-pol

 まず憲法の本質を国民が須らく理解することが先決だと思うが・・・
2013年04月19日




ネット選挙解禁

 本日の参議院において来るべき夏の参議院選挙に向けた「ネット選挙」が解禁となる法律が承認された。これによりネットによる本格的な選挙戦がスタートしたと言える。
 自分が選挙に出る時には「もっとネットで自由に選挙が出来たら良い」と思っていたのは事実だ。少なくとも自分で作成する趣意書では書ける文字数に制限もある。その意味に於いてネットであれば確かに多くの情報を、多くの皆様に知って頂くこともできる。その意味に於いては大歓迎をしたいところではある。あるのだが・・・
 なにも全く問題がないわけではない。自分でこういったHPやブログの管理をこまめに始めてみて実感していることであるが、兎に角、やたらと時間は掛るし専門的な知識は要するし・・・事実、私のこのHPもことあるごとに相談に乗ってくれる貴重な恩人の協力なくして全く運営され得ないという為体だ。逆の言い方をすれば、お金と人材と時間を豊富に抱えた人間は徹底的にネットでの活動を充実させることが出来るのだ。そう、ネット自体が商業主義に則ってすべてが運営されている以上、必ずそうなってしまうのが悲しいかな現実ではないのだろうか?
 これが正しいか?どうもこの議論が御座なりになっている気がしてならない。とは言え、始まったものはしょうがない。自分のできる範囲で、自分の考え方や日々の行動を伝えていくしか自分には出来ないのだから・・・
 ブログは毎日七転八倒しながら更新している。是非読んでいただきたい。素顔の私がいる。フェイスブックも充実させよう。だが、何よりも一番気掛かりと言うか心配なのは、
 「誰か読んでくれているのだろうか・・・?」

 ネット選挙でできる事
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130418-00010001-wordleaf-pol

是非皆さんもご協力をお願いいたします!
2013年04月17日




イメージ先行

 先月開催された春日市の市議会の場でも持論として散々申し上げたし、その詳しい内容については市議会関連に掲載させて頂いているが、やはり一見すると、私が闇雲に「公務員の肩を持っている」と取られそうで非常に心もとない感は拭えない。明確に申し上げておくが、公務員を殊更に庇うつもりなど毛頭ない。ただ、まるで魔女狩りのような雰囲気の中で、一定の職業を攻撃し、況してやその人の給料をとやかく言うという行為がどうか、という事を言いたいだけである。
 なかなか、この意見にご理解を示してくださる方も少なかろうと半ば諦めてはいたが、あるネットの記事で興味深いものを見つけた。

「イメージ先行で公務員を叩く日本社会は危ういとの指摘」
 http://yukan-news.ameba.jp/20130416-188/

 この中でも、タイトル通りイメージ先行で何かを集団で叩く行為の危うさを指摘してある。マスコミも商業主義であるが故にミスリードを行う。決して正義などではない。どうかその事も今一度考えて頂きたい。
 是非、目を通して頂きたい記事です。ご覧になられてください。。
2013年04月10日




信じる心

 新たに日銀総裁に任命された黒田氏の就任会見を受けて、日本企業の大半に於いて好影響を及ぼす株高と円安が進行している。彼曰く「今後はこれまでと次元の違う思い切った金融緩和を行う」のだそうだ。私は以前から、このデフレ下の不況を克服するには大規模な金融緩和、これは例えば現在国内で保有していない国債200兆円分をすべて買い取るような、手段が必要であると思ってきた。その意味に於いて今回の彼の姿勢は高く評価をしたい。まあ、問題がないわけではないが・・・
 彼は記者会見の中で「景気を良くするという信じる心が大切だ」と語ったと伝えきている。全くの同感だ。いくら不況であっても、未来に明るい展望さえあれば人は耐えられる。その逆もしかり。元来、経済は「これは、これだけの価値」と信じることから始まる、言わば信仰に似ている。その意味では「信じる心」は重要なのかもしれない。多分、株高だけでも十分、企業の利益は上がっていくだろう。問題はその先だ。企業が内部留保を増やすのみで、給与に還元されないなら、景気などよくなるはずもない。我々も企業を信じよう。であるが故に、企業も景気の回復を信じて更なる資本投下を行って頂きたい。
 ただのインフレが口を開けて待っているとは思いたくない。すべての国民が目指すものは好景気である。そう信じたい。
2013年03月28日




出会いと別れと

 3月末日を以て、公官庁では年度末を迎える。この風習の是非はともかくとして、少なくとも日本ではこの時期多くの別れと出会いの季節となる。我、春日市議会に於いても議員にこそ定年はないが、執行部を代表する部長クラスの方で退職の日を迎える方がいらっしゃる。今回は教育委員会の学校教育部長と社会教育部長のお二人だった。私は委員会が総務文教という事もあって、このお二人には委員会の席でも、また議場における一般質問の席でも大変お世話になった。「何も知らない若造が!」と内心思ってはおられたであろうが、常に紳士的に様々な案件を丁寧にご説明頂いた御恩は忘れられない。口幅ったい言い方ではあろうが「さすが専門職の部長」と唸る場面にも何度も出くわした。大変優秀な方々だった。今後は後進のご指導に当たられるらしい。これまで培われたご経験と知識を如何なく発揮頂いて、地域の為、春日市の為にこれからも引き続き頑張って頂きたい。今後の御健勝とご多幸を心より祈念する。お疲れ様でございました。
 別れもあれば出会いもある。本日当春日市議会に「防衛議員連盟」なるものが発足した。西日本有数の自衛隊の基地を抱える当市としては若干遅すぎた感もあるが、それでも結成に向けてご尽力いただいた先輩諸氏に心から感謝申し上げたい。御挨拶に大変お忙し中、自衛隊の幹部の方がお越しいただいた。尖閣、竹島、北方4島。抱える問題は多い。事ある際に自衛隊任せで知らん顔はできまい。側面からの支援をお約束したい。
 余談であるが、やはり、制服姿は人を数十倍かっこよく見せる。
2013年03月11日


黙祷

 本日、3月11日はあの戦後最大の自然災害「東日本大震災」から二年目にあたる。18000人以上の犠牲者の数はもちろんだが、未だに2500名以上の行方不明者を思うと本当に心が痛む。また昨年私個人も現地を訪れて心から実感した事ではあるが、今後へと続く復興の過程を思うと気の遠くなる思いである。
 本日、日本各地に於いて犠牲者への、そして被災地の復興を願う催しが開催されているであろう。遠いこの九州の地からではあるが私たちにも何かできることがあれば積極的にお手伝いをしなければならない。そんな思いを強くした。
 春日市議会に於いても、まだ議会に残っていた議員と議会事務局職員とで震災の発生時間に合わせて黙とうを行った。まだ寒く、復興と言う春は遠いかもしれませんが、日本中の思いが「東北の復興」であることは間違いありません。現地の皆様、どうか頑張ってください!!心安らかなる日々が訪れることを願っております。
2013年03月08日

国会質問

 昨日国会に於いて一般質問が行われていたらしい。今現在、私も議会中であるのでゆっくりと放送を見るわけにはいかない。しかし、一応朝のニュースでダイジェストは拝見させて頂いた。政権交代返しをされた民主党の大物が質問に立つ様子が流れていたのだが、率直に感じたことは、本当に与党も野党もお互い頭も良いし、よく勉強をしている。よく「議員は頭が悪い!」等と言うがとんでもない。間違いなく優秀だし頭はすこぶるいい。当然、全てではない。個々の資質が優れているのに何故政党として、政権として、互いに上手くいかないのか?昨日の放送を見て感じたのは、やはりその頭の良さの使い方が間違っている。方法論が違う事があっても到達したい目標は本来一つのはずだ。国と国民の幸福だろう。だが、どちらもその目的を見失い、自らの才能を他人を貶めることにしか使っていない。これは宝の持ち腐れだ。議員同士の立場での足の引っ張り合いなど必要ない。もっと有効に自らの才能を互いに切磋琢磨させれば、いくらでも良い知恵は浮かぶはずだ。なのにそうしない・・・頭がよすぎるが上に思考停止でもしているのだろうか?率直に、もったいない、と感じた場面であった。
2013年03月04日

衆議院改革案

 参議院の定数是正に向けた与党自民党の改正案が大まかに固まったらしい。
 最高裁に於いても違憲判決がなされている所謂「一票の格差」の是正は、法の下での平等の観点からも早急に是正しなければならない。
 しかし、その議論と定数削減を一緒に行うことが正しいのであろうか。
 確かに、物事が決められない事に対する国民からの痛烈な意見が多いのは事実だ。しかし、それは数の多寡がその結果を招いているわけではない。つまらない党利党略でのみしか動けない議員が多すぎるせいで、政策ごとの熟議が出来ないだけではないか。物事が決まらないのにはそれなりの意味もある。むしろ、時の勢いで、数に物を言わせて全ての物事が決定されていく事の危険性も十分に議論すべきである。国会は熟議の場だ。当然、少数意見の中にも拝聴に値するものもある。財政が厳しいのは解る。しかし、かといってその歳費の削減のみが政治改革の到達点、解決策ではないだろう。選挙制度を変えずに定数削減のみを行うのはやはり早計に過ぎるのではないだろうか。
 再度いうが、歳費の問題や遅々として進まない改革と、議員定数は本来別の問題だ。この事を今一度熟考頂きたい。
2013年02月28日

駆け込み退職

 今のご時世に於いて、政治家が公務員の肩を持つような行為が命とりであることは重々承知しているつもりでいる。実際、昨年の秋に民主党を離党し、以前から公務員の労働組合、所謂自治労の推薦も受けていない私は、彼らを庇わなければならない謂れは一切ない。しかし、おかしいことはおかしいと声を出さなければならないと思っている。
 公務員の駆け込み退職が話題となっている。3月末で退職すると退職金が100万円以上減るのでそれ以前に駆け込みで退職する行為を指してのことらしい。マスコミの論調は一様に批判的だ。
 「金のことは言うな!」的な崇高な思想が日本人の間で美意識として存在することは理解できる。できれば私もそうありたい。しかし、悲しいかな現実は数百円の使い道に一喜一憂している有様だ。そのような方も残念だが多いであろう。
数十年間必死で働いてきた最後の報酬が目の前で100万円目減りすることをしてすべての人間が「潔し」とするであろうか?
 一般の企業であってもその道を選択する人はかなりの数で存在するのではないだろうか?
 ともすれば魔女狩りに近いような行き過ぎた公務員叩きの感情論には若干の違和感を覚える。あらゆる職業に貴賤はない。冷静な議論を求めたい。
2013年02月20日

市議会だより

 私の市議会に於いての重要な役職の一つに「議会報編集特別委員会委員長」と言う仕事があります。多分、ほとんどの皆様がそれぞれにお住いの自治体から配布されてはいるものの、殆どご覧になられる機会もなく資源物として再利用されているものです。
 編集委員長を仰せつかった時から「皆様にどうすれば手に取って読んでいただけるか?」を他の委員と共に考え続けています。文字の大きさを変えてみたり、配置を変更したりと様々な取り組みはしていますが、未だ道半ば、改善の途中です。
 それでも、多くの市民の皆様から「読みやすくなったよ!」と声をかけて頂けるのは嬉しい限りです。「議会で何が行われているか?」を市民の皆様に解り易く伝えることは議会の重要な責任の一つです。これからも創意工夫を重ねるつもりです。皆様の率直なご意見をお聞かせください。
 過去の「春日市議会だより」は春日市議会のホームページにてファイル形式で掲示しております。ご覧ください!
2013年02月20日
体罰について                                                                   昨日春日市教育委員会で開催された全中学校校長会において「体罰に関するアンケート」の集計結果が公表された。約7割近い教諭が「体罰の経験がある」と答えたそうです。「体罰は絶体禁止」という現在の風潮を考えると確かに驚くべき数字ではあります。
 しかし、これを無くすのであれば今後いったいどういった方針の下で生徒の指導に取り組むのか、また親や家庭は何をすべきなのかの議論がないままに「体罰禁止」のみを決定するのであれば、現場は混乱を招くばかりです。
 理念は正しい。しかし現場に見合った判断もどこかで必要になるのではないでしょうか。尊い命や子供の尊厳が係る問題であるが故に軽々に意見を述べられる問題ではありませんが、理想だけでは対処できない問題も現実には存在するはずです。
 この点は今後も掘り下げて考えていきたいと思います。。
2013年02月18日
事前報道ルール                                                                 日銀総裁の同意人事を巡って今の与党(民主党)が事前報道ルールを破って後任候補の名前が報道されたので審議には応じられないとしていました。
 最終的にはこれでは国民の反発を食うだけだと判断し、協議に応じる姿勢に転じたようですが一体いつまでこういった不毛のやり取りを続けるのでしょう。自分達よりも先に報道されたから審議に応じないなどと言った下らない議論ではなく、誰が最もふさわしいか否かを真剣に議論することを国民は求めていることに国会は早急に軌道修正すべきではないでしょうか。
 攻守立場を変え、互いに揚げ足取りに追われる、そんな茶番に国民は付き合う気は全くないのですけど・・・
2013年02月10日
地方交付税減額決定                                                               政府の来年度予算の骨格が固まり次々と発表されていく中で、地方に対する交付税の大幅な減額が決定なされています。
 今現在阿部政権のもとで行われようとしている大幅な金融緩和策を含む経済政策に、私はほとんど賛成をします。しかし一方でインフレターゲットを設けてまで景気の浮上を狙っておきながら、一般給与の指針でもありマクロ的に非常に大きなウエイトを占める地方公務員の給与の引き下げを求めるのは、経済政策として明らかな矛盾を感じます。しかも、予算を盾にとっての中央主権丸出しで、まるで「お上のお達し」のような姿勢には怒りすら覚えます。
 これまでの地方自治体の自助努力を一切考慮せず、自治体の裁量権に踏み込む行為をして「地方の時代」とはとても言えないのではないでしょうか。当春日市においても予算作成上大きな問題ですし、地方自治の根幹を揺るがす大きな問題です。
 次の議会で一般質問を行い市の姿勢を伺うつもりです


バナースペース

さかき朋之 後援会事務所

〒816-0872
春日市桜ケ丘6丁目55-602

TEL 092-581-1200
FAX 092-581-1202