春日市議会議員 さかき朋之 オフィシャルホームページ

春日市議会議員さかき朋之

注:今後しばらくの間このホームページの更新は行いません。サイト内に提示してある後援会事務所も変更になる場合があります。この画面がインターネット上で掲示してある限りはメールアドレスも生きておりますので、御連絡の際はメールにてお願いを致します。電話、ファックス等は番号が変更になっている可能性が高いのでお控えください。ご迷惑をお掛けしますがご了承ください。(尚、サイト内で表示してあります肩書に尽きましても平成27年4月時点でのものになります。全て「元春日市議会議員」としてご覧頂きますようお願いいたします)

 メールアドレス:info@sakaki-t.com

更新情報



徒然に新着情報

2015年05月01日








御礼の言葉

 4年前の平成23年3月。春日市の市議会議員への立候補を表明して友人に無理を言ってこのホームページを開設して貰った。最下位ではあるとはいえ当選させて頂いた後、これまでの信念でもあった「議員は常に活動を行い、その情報を発信すべし」との思いから操作に慣れだしたこの2年間は最低でも2日に一度のペースで更新を行ってきた。当然更新を行うと言う事は、自分自身に様々な活動を強いる事にはなった。正直、もう少し休みたいと思わなくなかったかと問われれば休みたかったのが本音だ。日本中にごまんと存在するであろう地方議員のその殆どがそうであるように、兼職を持ち、名誉欲や利権のためだけに議員をしている大多数の者と同じことが出来ればどれだけ楽な商売であろうと思わなかったかと言えば嘘になる。だが、敢えて、敢えてそれには手を染めなかった。周囲から要領が悪いと罵られようが、愚直に議員と言うその職責に持つ大いなる意味を常に見つめ、常に考え行動し発信もしてきた。議員として誰からも後ろ指を指される事の無いように自分なりに動いてきたつもりである。しかし、この度の選挙で全く力及ばず落選し、私は議員を失職した。敗因については当然色々考えられるが、所詮、自らの考えの甘さと過信が招いたものであり、責任はすべて私自身にある。そのしっぺ返しは現実に今痛切に受けている。がしかし、その事でご迷惑をお掛けした、私を信じて票を投じて下さった方々や、この未熟な私を物心ともに支えて下さった多くの皆様に幾ら詫びても詫び足りぬ自責の念で一杯である。本当に申し訳ありませんでした。言い訳にもならないが、本気でこの4年間、地域の事、市政の事、そして議会の正しい在り様を常に模索し行動してきたつもりではいる。また非常に甘い考えではあったが、それさえしていれば周囲も理解をして頂けると思っていた。だが、それこそ唯の自己満足であったようだ。自分自身が情けなくて仕方ない。冒頭にも言ったがこのホームページも初めて4年が経過した。誰のHPよりも充実していると自負もしていた。だがすべて思い過ごしであったようだ。議員は当選して初めてその役職を得て、様々な形での発言力も発生する。その意味においても、その登竜門たる選挙で当選しなければ何の発言力も発生はしない。正直、この国の仕組みとしての選挙を私は甘く見ていたのであろう。唯々、自らの不甲斐無さに情けない思いで一杯である。そして何よりも、当選に届かなかったとはいえ、この私に正に物心共にご支援ご支持を頂いた皆様の想いを無駄にしてしまったことが申し訳ない思いで一杯である。本当に申し訳ありませんでした。「落下傘」等と言われこの地に降り立ち4年間、先程も言ったが必死になって地域の行事も参加させて頂いた。苦しかった時期もある。だが、それを許し、受け入れて、揚句支援までして下さった皆様の御厚情は私にとっての何よりの財産であるし、このご恩を一生忘れる事はない。生活を考えると、今後この地に留まり続けるかも含めて現在検討中である。だが、別に私に新たに出来た故郷を、新しい家族を捨てるつもりなど毛頭ない。この地での4年間は眩いほどに輝いた私の宝物である。
 議員でも、また暫く候補者でもない以上、こういった形での更新もするわけにもいかない。今後しばらくの間、このホームページも更新を行わない事になる。どれだけの方がご覧頂いていたかを知る由も無いが、一度でも訪れて頂いた読者の方には心より御礼を申し上げる。人の世は移ろっていく。いつか私もまた違う形で皆様の前に現れるかもしれない。その時までどうか、皆様お元気で、幸せにお過ごしください。
 本当に有難うございました。本当に楽しい4年間でした。

          平成27年5月2日
              春日市
                さかき 朋之



2015年04月01日








真価

 先に申しあげておくが、どうしても最近はインターネットがつながった環境下に居る機会が少なくなり、このホームページの更新が若干遅れ気味になっている事を心からお詫びする。インターネットがつながらない環境下とは即ち選挙事務所に詰めている状況である。そう、議員と言う職業を選んだ以上決して避けては通れない4年に一度の「選挙」を間近に控えている。
 以前も書いたと思うが、初めて立候補した際には、これは当たり前の事だが私には何の実績も無い。これに対して「信じて下さい」をお願いしていて「これで誰が信じてくれるのか?」は正直思っていた。仮に定員全ての議員が申し分のない実績と言うか議員として誰もが認める活動をしていれば、絶対に新人議員は当選など出来っこない。実績程大きなものは無い。が、現実の世界ではそうやって誰もが「見事」と認めるような議員は滅多にいない。であるが故に新人にも当選の機会は訪れるし、現職の議員も毎回毎回新人と同じような選挙をしなければならない。私は4年前この新人の壁を痛いほどに思い知らされた。それから自分でもここまで愚直だったかと呆れるくらい、議員として、常に周囲からの評価に晒される立場である事を胸に刻みつけて活動を行ってきた。これをして了とするかは有権者に委ねるしかない。別に偉そうに言うつもりは更々ないが、これだけは断言できるのは二期目以上の議員が新人と同じ選挙をしなければならないのであれば、それは明らかに議員としての職責を履き違えているし、更に言うのであればそれを基準として常に有権者も議員を選ぶのであれば永遠に政治など変わりはしないと言う事だ。議員に求められるものは当然日頃の社会に対する貢献やその具体的な活動であろうし、何よりも議会と言う場において有権者の負託を受けたものとして、その声なき声に耳を傾けて、それを議会の場において発言する事である。これが出来ているかどうか、その真価が問われるべきなのだ。敢えて言おう。この時期だけ人様に挨拶をするのも、駅に立って笑顔を振りまくのも、それこそしようと思えば子供でも出来る。これが選挙の基準になって良いの可か否かは今一度有権者も冷静に考える必要もるのではないだろうか。有権者に意見すること自体が烏滸がましいと、それこそお叱りは受けようが、それでも見極めるべきはその個人の「議員」としての資質であると私は思っている。その上で私が人様に認められなかったのであれば今一度考えなければならない。きっと何か大事なものが欠落しているのであろう。やってきたことが足りなかったのかどうか、どのみち真価が問われるのだ。ご指摘やご忠告は当然真摯に受け入れる。これまでもそうやって来た。だが、基本、これまで自分がやってきた事を、何よりも「それを有権者は見てくれいる」と信じている。なのでこれまで通りの活動を続けて行くつもりだ。特別な事はしない。ただ許されるのであれば、どうか今一度お力と勇気を与えて頂きたいと切に願うものである。
2015年03月09日








言及

 阿部首相が戦後70年の節目を迎える今夏発表する予定の談話について話し合う懇話会で、座長代理で国際大学学長の北岡某氏が先の戦争について「侵略して悪い戦争をして、沢山の中国人を殺して誠に申し訳ない事をしたと言う事は日本の歴史学者に聞けば99%がそう答える。阿部首相には『侵略』に言及して欲しい」と述べたらしい。

阿部首相は『侵略』に言及を=北岡氏

 何とも朝日新聞が飛びつきそうな記事であり、そういった立場の人からすれば絶賛に値する台詞であろう。確かに先の大戦において日本は中国に上陸しそこで激しい戦闘を行った。その際多くの犠牲者が出たと言う事は紛れもない事実である。だが、私はこの意見には、それこそ違和感しか感じない。歴史を語る時は、必ずその時代背景であるとか世界の趨勢、もしくはその時代しか持ちえない「熱」の様なものを抜きにして語る事は許されない。決して日本が行った行為を美化するつもりなどない。だがしかし、ではあの当時にその行為の全てを世界中が否定する、そういった価値観の中で戦っていたのかと言う問いに対しては明確に否と答える。何も連合国は日本の、彼らの言う『侵略』と言う悪に対して蜂起して闘いを挑んだわけではない。極論を言えば互いの利害関係の衝突が戦争に突入したに過ぎない。むしろ「平和に対する罪」等と言うのが、戦後の戦勝国側の、それこそ許し難い戦争犯罪隠しの為に用いられた詭弁である事の方が、歴史学者の99%が認める事実であろう。戦争が愚かな行為であると言う事は今や世界中の認識ではあろう。がしかし、その当時そういった感性が世界中に蔓延していたか。加えて言えば今でもそれが貫かれているかについても甚だ眉唾である。況してや、過去のわが国の行為を、ことさらに70年経った今になって蔑んで発表すれば、それこそ、それが正しいと思い込んで犠牲になった我が国の人間の誇りもどこに行くと言うのだ。この移り変わりの激しい時代、冷戦構造や宗教戦争と言う局面をいくつも越えてきた現在にあって、ことさらにそれほど以前の話を表に出さなければならない、況してや現在の価値観でのみ語ろうとする、その真意が私には見えない。歴史は直視すべきだ。決して目を背けても歪曲してもいけない。しかしそれは正に「お互いに」であるべきだ。感情的に腹立たしい部分はさて置いても、戦後70年経って殊更に我が国の過去を貶める台詞を並べる事が、未来に向けての世界への提言になるとはとても思えない。呪縛から解き放たれる方が全ての為になると思うのは私だけであろうか・・・
2015年02月02日








問われる覚悟

 決して起きてはいけない事であるが、下記にも記した「イスラム国」による邦人誘拐事件が最悪の形で推移してしまった。様々な駆け引きがあったものの、まだ不確定ではあるが、こともあろうに相手側は日本人二人を殺害し、揚句その映像を公開すると言う暴挙にまで及んでいる。当然、宗教はそれを信じるものと信じない者とでは大いなる価値観の相違が生じる。一方的に現在の先進国側の主張のみを「正義」であると押し付け、そうでないものを追い詰めるような行為はあるべきではない。その意味で、相手には相手の理屈もあろうと非常に物わかりのいい態度を私は示してきた。が、正直申し上げる。全く持って私の考えが甘かった。こんなもん、大変申し訳ないが前時代も前時代、日本で言えば江戸時代に晒し首を行うような感性ではないか。いや、それ以上にしっかりと現在のITを駆使しているのであるから質が悪い。最低の蛮行であり、最も忌むべき下劣な行為だ。こんなもの相手に理性も理屈もあるものか、と正直怒りしか湧いてこない。

「イスラム国」後藤さん殺害か 安倍首相「痛恨の極み」

 政府としても、当然の様に猛烈な憤りと遺憾の意を表している。結果的に尊い邦人の人命が失われた。しかし、政府の対応は決して間違ってはいなかっただろう。外交のチャンネルを通じて様々な機会で救出をもくろんだはずだ。いや、逆に言うとそれ以外しようがない。ただ、相手が、全くどうにも理屈も常識も通じない野蛮極まりない相手であったと言うだけだ。これで政府を責めるのはお門違いであろう。ただ、正直に思うのは、今も誰もが口をそろえて言う「我が国は決してテロに屈しない」と言葉について、理念は圧倒的に支援はしても「であればどうする」と言う答えが見えない事を最も憂慮するのだ。仮に現状で今回と同じことが起きても、政府の対応がそうそう変われるわけも無い。ならば現状で「テロに屈しない」は唯々人命が失われていくのを黙って耐えるだけになりはしないか。そうだろう?あの常識の通じない連中の資金源になるような莫大な身代金に応じるわけも無く、人質の交換も自分達ではそのカードを持ってない。ならばただ、他国の温情にすがるしかない。これを繰り返すのか?正直言って私の頭の中に現在湧いている感情は、「ならば武装蜂起して相手の拠点を徹底的に叩くしかない」と言う思いだ。いや、間違いなく短絡的だ。だが、それ以外にあれ程野蛮な連中を相手にして法人の生命を失わないで「テロに屈しない」事が出来るのか?その答えを見つけられないでいる。ただ、当然これはもう立派な戦争だ。仮に国民が私と同じようなどす黒い感情を抑えられないなら間違いなくそうならざるを得ない。ただ、勘違いしてはならない。そうなった時に銃を持ち戦争に行くのはほかの誰でもない、私自身であろうし私の子ども達でも良いと言えるかと言う事を考えなければならない。多くの国民が現在義憤の念に駆られていると思う。しかし私自身立ち止まらなければならないのは、それは又新たな犠牲を生み出す行為以外の何物でもないと言う事だ。国民に、本当の意味で様々な覚悟が問われる、そんな事態になってきているのかも知れない。今、私自身は答えを持ち合わせていない。
 感情に走るべきではないかも知れないが、さりとて、犠牲になった彼等の事を思えば憤懣やるかたない思いであるし、その無念さを思えば胸が締め付けられる思いだ。心からご冥福をお祈りする。
2015年01月21日








今そこにある危機

 つい先日フランスでイスラム教原理主義者の犯行と思われる凄惨な事件が起きた。この事についてはブログに想いを述べてあるのでご参照頂きたい。

さかき朋之公式「さくらブログ」 1月9日記事「惨劇」 

 この惨劇への世界中での震撼がまだ収まらない中、大変残念であるが、今度はと言うよりもとうとう、日本人をターゲットにした人質誘拐予告と言う起きてはならない事件が勃発した。

「イスラム国」日本人殺害を予告 72時間以内2億ドル要求

 その大変衝撃的な映像は私も当然観たし、人命を取引の材料に使う人間として最も愚劣且つ野蛮な行為に心の底からの憤りと怒りの念を抱かずにはいられない。決してこんな卑怯な行為は許されるものではない。糾弾されてしかるべきだ。しかし、大変残念な事に、それが全く我々の常識や道徳と相容れなくものであったとしても、彼らには彼らの理屈があり正義があるのであろう。いや、決して容認はされない。しかし、そういった理念と理念のぶつかり合いの最終的な形こそ戦争なのではないか。いくら国際社会の大多数が希求する正義であったとしても、彼らにすれば自分達とは相容れない、むしろ憎むべき敵でしかないのだ。これはもう理屈ではない。彼らの理論で言えばそうなのだ。。その陣営にくみする「日本」と言う国が、普段から自分達と敵対する国への援助を決定すれば、何度も言うがこれが現在の国際社会の常識とは大きくかけ離れていたとしても、唯々日本と言う国は自らの市議思想の実現を阻止しようとする敵以外の何物でもなく、これを攻撃する事は即ち自らの正義の実現のための正当な手段であり、いくら国際社会から非難されようが知ったことではない。なぜなら、そもそも論として正義派ぜったに自らにあると信じて疑わないのであるから。何度も言うが、これは民間人を標的にした卑劣なテロである。が、同時に明確に一種の戦争だ。憲法の解釈を変更し、様々な形での自衛権の行使を認めた際に「戦争の出来る国にするわけではない」と現総理は声高にこれを警戒知る人々をまるで見下すように叫んでいたが、それは違う。この様な「テロ」等と呼んで国民の意識を誤魔化してはいるが、明確に敵を作り戦争をしなければならない国になっていくと言う事なのだ。いや、勘違いしないで頂きたいのは、私はそうならそうで構わない。一国独立してその国を守ろうとするのであれば当然そういったリスクは付きまとうし、その責務は国民が負うべきでもあろう。ならば、誤魔化すな!!「様々な形で集団的自衛権を発揮し、同盟国に肩入れを行なえば、相手国から攻撃を受ける可能性はあります」この事を国民に明確に伝えるべきだ。その上で、こういった「テロ」と言う言い方で濁しているが、実質戦争に突入する事を明確に伝えるべきではないか。それを国民が了とするのであればそれで良い。だが、どうもあの方は国民を欺き良いように操作している風にしか見えない。この期に及んで「陣頭指揮は私が取ります」と、またしても抑えきれない高揚感で話していたが、現実問題、人命が掛かったこの究極の状況をして、個人にその責任の一切を任せる様な、そんな国ではないはずではないか。彼は神か何かにでもなったつもりか。驕り以外の何物でもない。間違いなく、このような憂うべき事態は今後も続くであろう。またいつ何時日本人が狙われるかもしれない。この国が歩み始めた道を思えば、そういった危機に対する備えも必要になってくるだろう。だが、この国にとって最大の危機を思い描くとき、私にはどうしてもあの雰囲気だけで内容の無い、威勢こそいいがその実大変なお坊ちゃまの顔が思い浮かんでしょうがないのである・・・
2015年01月08日








余話として(桜ケ丘の年末)

 下に年頭の挨拶を書いた後で年末の話題を核のも実際どうかと思わなくもないが、更新の関係上そうなってしまったことをお許しいただきたい。
 個人活動に詳しく書かせて頂いているが、桜ケ丘地区でもさすがに大晦日には自治会の行事も終了となる。しかし、だからと言ってこの町が、それこそ水を打ったように静まり返る訳ではない。まず、押し迫った30日には私のご近所の個人のお宅で大変盛大に餅つき大会が開催される。あくまでも個人の餅つきである。しかしここにこれまたご近所から大変多くの方々がもち米を持ち寄って、ここで正月用のお餅をつくことが慣例になっているものだから大変に賑わう。朝から三々五々やってこられるご近所さんの多さで、つくもち米の量は公民館の行事の量を凌駕するほどである。皆で笑いあい、元気よく餅つきの合図が木魂する。加えて大晦日の紅白歌合戦が終わる頃になれば、町民たちはこぞって地元の小さなお社である老松宮に集まってくる。別に何の行事があっている訳でもない。ただ、新年の歳神様をお迎えする初詣に多くの町民がここへ集い、お神酒を頂き、またいつもの様にお話を始める。その当たり前が心地良い。

 別に何のことはない風景と言われればきっとそうであろう。間違いなくほんの40年前までは日本中のどこでも見られた当たり前の光景であろう。だが、今この光景を都会で目にすることはまずない。では、春日は田舎か?いや、冗談ではない!私の住んでいる春日市桜ケ丘は福岡市のすぐお隣だ。決して田舎の街ではない。だが、こんな光景が、風景が残っている。私はこの町に来てまだほんの4年しかならない。それこそ新参者だ。だが、この町のこんな風景が好きでたまらない。この町で活動できることを、別に綺麗事を言う訳でもなく、心から楽しんでいる。間違いなく町内の行事は多い。それもすこぶる多い。が、であるが故に町の人同士の絆が強いのも紛れもない事実だ。この町で、また新しい年を迎えられたことを心から嬉しくそして有難く思う。本音を言えば4年前、この町に来た時、この町の人たちに怯え気持ちが沈みもした。しかし今、私はどこにいてもこの町に帰ってくることが最大の安らぎになっている。最早気の置けない方々との触れ合いこそが私の力であると言っても決して過言ではない。

 夜明けとともに町は一面の銀世界に覆われていた。清々しい気分だ。本気でまた一年頑張って行こうと改めて考えたりする年末から元旦の朝であった・・・
2015年01月01日








年頭に

 新年あけましておめでとうございます。

 改まって御挨拶をしてみたものの、実はそう深い実感がある訳ではない。ただ、今年が昨年までとは全く違う一年である事だけはしっかりと実感している。そう、今年は4年に一度我々が必ず受けなければならない有権者による審判の場である「統一地方選挙」が開催される。当然、私の中でも予定を立ててこれに対する準備をしていかなければならない。が、そうは言いつつも自分の中で明確なビジョンがある訳ではない。と、言うのも、これは私は以前から言っている事であるが、私が最も忌み嫌うのが「選挙の時だけ」張り切る政治家であるからだ。確かに最初の選挙時は「私を信じて下さい」と、ある意味大変大口と取られてもしょうがない事を言って回らなければ誰も投票などしてくれるはずもない。が、二度目は違う。と言うよりも決してそうであってはいけないのだ。4年間、地域で、市内で、そしてどこよりも議場にあって、前回私にその貴重な一票を投じて下さった人々の思いを決して裏切る事の無いように、働き続けた姿を有権者にどう映っているのかを問われる場所であると思っている。その意味で言えば、自分に自信があるのであれば、これまでにしてきたことを変わらずに続けて行く事しかないのである。耳触りのいい台詞を信じる人などいるわけも無い。ただ実績が評価される場であるはずなのだと思っている。大変不遜不敬な言い方であるとお叱りは覚悟の上であるが少なくとも私は、前回私に期待票を投じて下さった方にも決して恥じる事の無い、地域でも市内でも、そして議場においても、誰よりも「議員」である事の意味を深く考え、その在り方を具現化すべく動いてきたつもりである。これは胸を張って言える。当たり前だ。胸を張って言えない様で現職として、今一度私を信じて票を投じて下さい等と言える訳も無い。それほどこの職業の重さは理解しているつもりでいる。特別な事はしないと言うか、多分性格的に出来ない。いつもの通りに自らの役職の重さをしっかりと噛みしめて、唯々実直にそれをこなして行くのみである。願わくば、これを冷静に判断してくださる方々が多からんことを祈るのみである。まだまだ、何も完璧に出来ている事など一つも無い。常に大いなる理想に向かって道未だ半ば、旅の途上である。多くのお叱りもすべて我糧として貪欲に身に付けて行かせて頂きたい。どうか昨年以上の、倍旧のご愛顧と、ご指導鞭撻のほどを心からお願い申し上げるものである。私にとってもではあるが、どうか皆様に取られましても大いなる飛躍の一年となります事を祈念いたしております。頑張ります!!
2014年12月16日








高揚感

 先日行われた衆議院の総選挙で、現在の政権与党、即ち自由民主党と公明党が圧倒的且つ歴史的な大多数を占める勝利を果たした。

阿部政権長期政権に足場=第3次阿部政権発足へ

 常日頃から、一時期政権交代を果たした党とは違い、政権運営に一日の長もあるし、加えて様々な意見が当然ありはするものの、現時点においては、それ以外の選択肢がなかったであろうことからも、「アベノミクス」等と言う仰々しい呼び名は兎も角として、インフレと円安誘導の経済政策も決して間違っている物ではないと、私は個人的に思っているので、この選挙結果については概ね妥当であるし予想していた通りでもある。唯しかし、別に好き嫌いの感情を全く抜きにして考えてみれば、このまるで一党独裁の様な政党間の勢力分布をして正常と思えるのかとの問いに関しては「否」と答えざるを得ない。少なくとも経済政策一つとっても、その幾つもある手段の中から、本来であればその場その場に応じた最も適切であろう政策を、様々な角度から検証し取捨選択を行うべきであるのに「この道しかない」等と大上段に言われてしまえば将来に対して不安感は拭いきれない。いや、そもそも論を言えば、現在の与党自民党は、この選挙の前ですら既に押しも押されぬ大勢力であったはずだ。ここが、いわゆる横綱相撲をせずに、数や力で圧倒的に劣る野党に対してまるで逆桶狭間よろしく、奇襲攻撃を掛けて壊滅に追い込むような戦い方が、今後の政治の在り方として正しいのかと言う疑問は当然残る。唯「勝てばいい」や敵勢力の壊滅をもくろむさまは暴力団の抗争とさしたる違いも無い。「自由」と「民主」を標榜する政党が異論を掲げる他勢力を全力で押しつぶそうとするさまは、ある意味生き残りをかけた戦いの理論としては正しくても、民主主義の今後を思えば大いなる遺恨を残しそうな気もする。加えて言えば、この勝利を受けての首相のインタビューも大変気になるところである。常日頃から他勢力に対して「あなた方は出来なかった」と言う現状の結果論のみを声高に訴え、常に自らの正当性を訴える手法を取りがちではあるが、今後の政権運営に関して様々な提言を行うインタビュアーの意見など一向だにせず「貴方の様に批判するだけではないも出来ない」と切って捨て、揚句自らの主義主張を誰憚ることなく口角泡を飛ばして捲し立てていた。確かに戦略がツボにはまった会心の勝利であったろう。加えて政治家特有の選挙後の興奮冷めやらない心境は十二分に理解も出来る。だが、一国の総裁が自らの湧きあがる高揚感を抑えきれずに、唯々自らの弁舌に良い、学生のリベートよろしく優越感に浸られても国民としては不安感を煽られるのみではないか。他人から貶されることを知らずに、常に優越感の中で生きてきた育ちの良さが悪い方に転ばない事を唯々祈るのみである。「結果が全て」も確かに良い。だが、多数決のみが民主主義の政治の目指す理想形でもない。現状において「奢るな」が出来る程、高潔で自制の効いて人間などそうそういない事は我が身の胸に手を当てても理解は出来るが、それにしてもこれほどの高揚感を抑える術を知らない人間が勝者の椅子で吠えまくるのもあまり見ていて気分の良いものではない。勝者のみが市場を席巻し、庶民には選択の余地のない世の中が現実身を帯びつつある。そんな警鐘が彼の弁舌の遠く後ろで聞こえた気がしたのは心配性の私だけである事を願う。
2014年11月18日








大義なき解散

 今月になっていきなり噴出した解散の雰囲気に一切抗う事なく現阿部内閣は解散を表明し師走で世間が慌ただしい中、衆議院は総選挙に突入する。間違いなく衆議院の解散は総理の専権事項でありこれをいつ行使しようが基本的に誰も文句など言えるものではない。無いが、やはり本来大義は必要である。国民に対して何を問うかが本来は明確に定まっておかねばならない。今回の選挙に於いてそれが何か、実は私にはさっぱり解らないでいる。
 野党はこの期に及んで当然の様に現内閣の経済政策、いわゆる「アベノミクス」の失敗を世に問うつもりであるらしい。先日発表された消費増税後の6〜9月期のGDPの速報値に於いても確かに経済の回復は数字として表れておらず、むしろマイナス成長と言う日本経済に於いて大変衝撃的な数字が示された。これを受けて市場も大変な混乱をきたしてはいる。

GDPショックで株高シナリオ狂う!アベノミクス問う選挙に!!

 私は何も現政権を擁護する立場にはないが、しかし、現時点の数字だけを見て現政権の経済政策の失政をとやかく言うのは全く見識の足りない意見であると思う。少なくとも2年前まで鳴り物入りで政権交代を果たした当時の政府は果てしなく続くデフレ不況をただ指を咥えて見ているだけであったし、あの状況下においてデフレスパイラルから脱却し経済をインフレ傾向に導くためには政府主導の大幅な金融緩和が最も求められていた手段である事に疑いはない。加えて言えば、これまでの経済原則で言えば輸出産業の多いこの国とって優位となる円安も実現し、加えて株価も倍近くまで跳ね上がっている。企業の内部留保が増える分着実に景気は良くなるはずであった。ただ、実体経済とは程遠い投機筋が経済を掻き回し、加えて海外生産へシフトした多くの国内企業が資本投資を行わないと言う大きな計算違いがあったのは事実であろう。だが、だからと言ってあれ以外の手立てがあったのか、もしくはこれを批判するに足る政策を現在の野党が持ち合わせているのかと言う点においては極めて疑わしい。仮に現政権下での失策を挙げるとすれば、それは経済が上向きかけた時にそれに大きくブレーキを掛ける消費増税を行った事であろう。さりとて、これもその駆け込み需要もあっての景気回復の感も否めない。であるとするなら尚、今回の選挙は国民に何の信を問うのだ?この状態をしても尚、国際公約とした消費増税を行うとした上でその信を問うなら解らなくも無い。だがしかし、消費税の増税は見送るのだと言う。当然、野党もこぞって増税見送りであろう。ならば争点など在りはしないではないか。仮に間違っている物があるとするなら、それは投機筋が実体経済を凌駕している事であり、それに振り回される企業倫理だ。だが、これを問うなら統制経済にでもしなければならない。こんなものが争点になるはずもない。ならば何を問う?この選挙で証明されるのは、国民の政治への諦めを示す低投票率と言う情けない結果が容易に予見できる気がするのは私だけだろうか・・・
2014年11月03日








サービスの質

 以前私は旅行業界にいたこともあってであろうサービスの質について考える事がよくある。

 つい先日、今大変話題になっている大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行く機会があった。会場内は巨費を投じて設置されたハリー・ポッターのエリアの影響であろう平日にもかかわらず大盛況の人手であった。この新作アトラクションは言うに及ばず、以前から設置されているどのアトラクションも非常に完成されており、その一つ一つの面白さに関して言えば満足度は極めて高いものである。しかし、何かが足りないのだ。世界中の各地にその世界に於いて非常に愛好者の多いディズニーワールドがある。断わっておくが私は決してディズニー愛好者ではない。しかし私も数度ここに行った事があるが間違いなく面白い。愛好者でない私であっても尋常で無い程の高揚感を覚えるのである。言ってみればここも同じようなテーマパークである。であるのに何故、ここでは同様の高揚感を覚えないのか?これについて考えてみるに、やはり微に入り細に入る心遣いが足りていないのだ。人気の場所であれば当然の様に行列も生じる。しかしその後の事を想像すれば多少の待ち時間は我慢も出来よう。しかし一定時間を超えれば超える程その先に待つ期待感のハードルは高くなる。これをさせない工夫こそが実はサービスなのだ。目に触れるもの全てに於いてこの心遣いが出来ていれば人は疲れを覚えすらしない。ディズニーはこの事に細部に拘り、USJはこれを御座なりにしている。非常に細かい話であるがこれに気を遣えない限りこの施設の価値は次第に目減りしていき施設として長続きもしなくなるのだ。

 翌日京都を訪れた。日本で一番観光客の多い場所であるし私も大好きな日本の古都だ。観光地としてこれほど洗練された町も世界中でも珍しいだろう。では、この町はサービスに抜きんでているか?と聞かれれば実はそうでもない。それこそ一見客お断りの文化があったり物価も決して安くない。サービスの質としては一般受けは決してよくはない。しかしこの地の場合、それらの全てを凌駕する悠久の時の流れに裏打ちされた時間的な価値がある。待ち時間がどうのと言う短いものではなく数千年と言う歴史の中でその価値を磨き続けてきた物事が圧倒的な存在感でそこにある。この前では小さな小手先でのサービス云々など見る影も無く消し飛んでしまう。経済学の世界に於いても人間の価値の基準は労働の時間によって決定されている。であるとするならばもしかするとサービスの基準とは、その人が時間を掛けたと感じさせないそんな魔法の事であるのかも知れない。逆の言い方をすると「時間」ほどお金で買えない様な、そんな重たいものはないと言う事にもなる。私のこれまでの4年間が市民にとって価値ある物であったのかどうかの審判が下されようとしている。議員としてのサービスの質が高かったか低かったかが試されているのだろう。残念ながら京都が持つような圧倒的な存在感は無い。となると・・・不安感ばかりが先に立つ今日この頃である。等と言う事を考えながら観光地を歩いても全く楽しめない私であったりする・・・
2014年10月20日








短絡的

 これが今年になって一体何件目の事件であるのか数えたくもないが埼玉県でまた何の罪も無い人間が凄惨な事件に巻き込まれその尊い命を奪われている。現時点においてこの凶行に及んだ容疑者は「誰でもよかった」と供述しているのだと言う。
 埼玉の女子大生殺害 父「犯人許せない」 傷は十数か所
 常識的な人間であれば、一体どういった思考回路からこのような残忍で無慈悲な犯行が起こせるのか理解など出来ないししたくも無い。当然の様にこの先に事件の背景も明らかにはなろうが、それが如何なる物であったとしても被害者が命を奪われる理由には絶対にならない。以前も当然あっていたのではあろうが、それにしても何故これほどまでに利己的で自分勝手な動機を持って人を殺めることが出来るのであろう。この短絡的な思考には失意と共に怒りを禁じえない。況してや「誰でもよかった」等と言う、そんな理由があるものか。私は以前から死刑廃止論を訴える人たちの頭の中を一度覗いてみたいと思っていた。どうすれば被害者の明日への希望や夢の全てを突然に絶たれた無念を晴らせるのか、大切な家族を失った遺族がどれほどの喪失感と言いようのない自責の念に駆られて生きていき、その気持ちの整理をつける為に死ぬよりも苦しい地獄の中を彷徨われるのかを一切斟酌しないで「被害者の更生」や「先進諸国の常識」を前面にそれを言い出せるのか全く理解できないからだ。加えて言うのであれば「刑法第39条」の規定しにしてもこれを必要とする明確な理由が解らないでいた。しかし、こういった事件が相次げば私も死刑廃止で良い気がしてきた。現行の罪刑判例主義の裁判にあってはこの犯人はまず絶対に死刑にはならず数年後に社会に出てくることを許されるのだ。人様の命を未来を奪うと言う行為を犯しておきながら正式な裁判で言い渡された罪状を果たせば社会に復帰できるのだ。刑法第39条にあたる被告も同じく、であるが故に不起訴となるのだ。ならばもう死刑など何の意味も持たないではないか。これ程理不尽な動機で無差別に未来を奪われて「現行法に於いて」正式に処分された結果が「死刑」にならないならばもう極刑などいらないではないか。それならばもう「仇討」を復活させて頂きたい。人一人の人生を奪ってそれが万死に値しないのならば、それが法の限界であるのならば、被害者や遺族の魂は一体いつ休まると言うのだ?死刑廃止論者の方々は被告の更生を祈って仇討など考えないであろう。それも良い。だが、私は別に短絡的でも何でも無く仮に身内が受けたであろうその恐怖と同じ思いを被告に味あわせる。いや、むしろ「死刑執行」で最も楽な死なせ方などさせたくも無い。犯罪に手を染める人間の思考がこれほどに短絡的であるならば、どこかで原始的で最も古典的な抑止力であると揶揄されても「目には目を」的な縛りが無ければこんな悲劇はまだ続く気がしてならない。ともあれ、被害者の魂の安らかならんことを心から御祈り申し上げるし、遺族並びに関係者の皆様に於かれましては衷心よりお悔やみを申し上げるものである。加えてこんな悲劇が本当の意味でもう二度と起きないように社会全体が今一度被害者や遺族の立場で刑法の在り方を考えるべきではないだろうか。
2014年10月09日








当たり前に

 今でも忘れもしないが、確か小学校3年生の頃だったと思う。公民館に地元の小学生が沢山集まって相賀の鑑賞会が開催されたことがあった。観た映画は「ゴジラ・モスラ・ラドン・キングギドラ史上最大の合戦」だった。所期のゴジラ映画の中ではある意味私はこれは最高傑作であると思っている。だが、この映画からゴジラがヒーローになりゴジラシリーズの衰退が始まるのも事実であるがその事は今はどうでもいい。兎に角、当時はビデオもDVDも一切ない時代だ。この映画にしても大変大がかりな16oのフィルムに映写機を借りてきてスクリーンまで用意したのであろう。当時こういった事は親にねだりまくって街の映画館でしか見ることが出来なかった時代だ。この公民館で映画鑑賞会をすると言う行為がいかに大変な事、いや、特別な事であるのかと言う事は子どもながらに理解が出来た。今に比べても尋常で無い程会員の多い子ども会ではあったが、それでもこの映画鑑賞会にはお菓子のお土産付きではあったが300円とかの料金が徴収されたのを覚えている。今にして思えばそれくらい機材一式を借りる事も大変だったのであろう。

 先日地元自治会の子供会育成部が主催で中学生を対象に映画鑑賞会が開催された。自分もそうであるが現在はあの頃と違って映画だって見ようと思えばいくらでもシネコンに行けばいいしレンタルも加えて常時CSで放送もされている。別に珍しくもなんともないとも言える。だが、やはり大勢でこれを見ると言う事は猛烈に印象に残る思い出とはなろう。そしていくら巷がソフトに溢れているとはいえこういった行為は決して通常ではない。特別な事なのだ。
 現在コミュニティスクールを前面に掲げ地域一帯で子育てを標榜するわが市は勿論、どこの地域に於いても多かれ少なかれ「子どもは町の宝」であるとされこれを皆で守り育てようと言う意識は確実に高まっている。この行為や精神に一切異論はない。だが、であるが故にどうかするとまるでお客様の様に子供に気を使いすぎる風潮があるのも事実だ。確かに少子化と核家族化が進む中で、これまででと違い年配者から物事を教わる機会がめっきり減少した子ども達に地域が一丸となって物事を教え常識や道徳を教える事には大いなる意義がある。であるならば、私は子ども達に親でも出来えない様な厳しい態度で接するべきではないかと考えたりする。全てがそうであるとは決して言わないが、ある種けじめのつかない子供の態度が私から見ると「恐れを知らない」子どもの態度に映る事がある。大人が自分たちのために何かしてくれるのがある種当たり前であり、むしろ自分たちに媚び諂うものとして映っているのではないか?そういった部分においては大変子ども達は小賢しいし敏感である。先程も言ったが大人たちが子ども達の為に一生懸命何かをしてあげたいと思う事、その事がもう既に子ども達にとっては凄く幸運な事であり非日常である事を教える必要があるのでは無いだろうか。決して当たり前だと思ってはいけないのだ。子ども達を対象にした様々な行事があるたびに私は我ながら捻くれていると思いつつもそんなことを考えたりしている。無条件で怖い大人がいてそばにいるだけで緊張するようなそんな思いも時には必要だったりする。それに自分がなるべきかどうかは若干悩むところだが、そういう人間がいても良いなと思う今日この頃である。
2014年10月03日








古都の灯り

 政治的な意味では全くなく、いや、むしろその意味で言うのであれば正反対の印象の方がむしろ強いが、その町が持っている空気や佇まいに関してのみ言わせてもらうと、私は仕事の関係で約10年ほど家を借りて住んでいた太宰府と言う街は好きだ。まあ、しかしこれは言ってみれば誰だってそう思うであろう。九州の地にしては古墳時代を除いてもっとも古くからの歴史もある町であるし、福岡の中心地から車で30分足らずで行けると言うのにも拘らず色んな意味で手付かずで当時の面影が残っている場所が散在している。しかし、冒頭で「政治的な意味ではなく」と言ったのは正にそれで、もし仮に数十年前からこの町の持つ歴史的な意味や、その事を含めた観光地としてだけでなく九州に住む人間の心の故郷としてのこの町の潜在能力を当然県と言う行政単位は勿論だが市が明確なヴィジョンを持ち合わせていたならばこの町はきっと岐阜の高山にも負けないほどの立派な歴史遺産にもなり得たはずだ。ただ、これを一切しないで指を咥えて見てきた。この事が私には勿体なくて仕方がない思いである。今でこそ、この町の歴史的な建造物に対しての脚光を浴びせるようになっているようであるが若干遅きに失した感が否めない。本来であれば水城から政庁跡、観世音寺、戒壇院、天満宮、竈神社から法満山の一帯は古代九州の文化的宗教的、加えて政治体制の集合体としての遺産であると言って良い。ここを本来はもっと手厚く守り育てる政策を立てるべきであったのだ。だが、それが出来たはずのわずか40年前からこの一帯は様変わりしてしまった。何とも嘆かわしい限りだ。ただ救いは、今挙げた名所旧跡が単体ではあるが当時の面影をしのばせてくれている事だけだ。

今年は、水城築城1350年の節目に当たる。各地でこれを記念する行事が開催されている。先日もここに蝋燭で灯を燈し在りし日の面影をしのぶ行事が開催されていたので見てきた。優しい光に包まれてみるこの地は周囲の妙な建造物が目に入らなくて妙に幻想的で気持ちが良い。結局、過去からの遺産をどう引き継ぐかは現代の人の気持ちでどうとでも変わるのだ。

幾星霜をただ黙って見下ろしてきたこれらの建造物にもしも心があるならなんと言うのであろう。幻想的に夜は更けていく・・・
2014年09月21日








報道の重さについて考える

 一般的に言う新聞記事と言うものの正しいあり方と言うのはどういったものであろう。世界各地で起きた様々な事象を出来るだけ客観的かつ正確に、加え迅速に伝えるものであると私は考えている。確かに物事は様々な局面を持っている。見る人によっては全く違った性格のものになろう。それは受け手の側がそれぞれに違った価値観や感受性を持っているからだ。であるが故にそれを大きく左右する恐れのある報道は出来うる限り客観的でなければならないのだ。ここに一定のバイアスが掛かれば当然の様に受け手の感情はそちらの側に誘導される。今の様に情報が豊かになった時代であっても、その場で直接その出来事に触れられない物にとってみれば、正にその報道に求められる中立性や客観性、そして真実のみを伝えると言う姿勢は絶対に求められるもであるはずだ。戦前から戦時中の非常にあの厳しい時代にマスコミと言うよりも当時の新聞は国家の国威高揚の為に、正に国家権力に利用された。如何なる敗戦であっても「名誉ある撤退」であると国民を騙し続け、これを読んだ国民の多くが敗戦の寸前まで国の未来に全く絶望していなかった。本来国家と言う巨大な権力に立ち向かえる最後の砦あるはずの新聞に代表されるマスコミが権力と共に国民を欺けば民意の誘導など訳もない事を皮肉にも証明したのだ。この大いなる反省を受けて戦後のマスコミは自らの襟を正したはずである。そうでなければ正に自己否定に他ならない。事実のみを正確に私情を交えずに迅速に伝える。後の判断は読み手である国民に委ねる。これこそがマスコミに与えられた使命であり、であるが故に「報道の自由」であるとか「国民に伝える義務」や「報道の権利」を憲法に於いても保証しているのである。これを根底から覆すような事が立て続けに起きている。

「読者の信用傷つけた」朝日新聞社長の主な論点

 この件についてはそれこそ若干以上の感が無くも無い位に他者マスコミ各社がそれこそこぞって「不買運動」を呼びかける程の大騒ぎになっているので具体的な内容については省くが、やはり約20年に渡って国際問題にまで波及している事例の根本的な出発点の検証を怠り、加えて訂正を行わなかったと言う点や、原発事故の対応に於いてこの国全体の名誉を著しく傷つけたと言う点をやはり黙認は出来ない。加えて言うのであれば明確に、国や大企業の権益であればそれを否定することがマスコミのあるべき姿であると勘違いでもしたかのような様は、正に客観性や中立性、加えて言えば最も大事な事実の報道と言う基本からも大きく逸脱するものであり許されるものではない。間違いなく先程も言ったようにマスコミと国家権力が手を結ばれたときに国民にそれに抗う術は一切なくなる。現在の某国でがそうであろう。したがって決してマスコミは国家に絶対に従う所謂御用聞きになってはならない。だが逆にただ闇雲にそれだけを攻撃していさえすればよい訳もない事はそれこそ子どもでも解る理屈のはずだ。この過ちを認め訂正、謝罪しこの国のマスコミとしての信頼を回復してほしいと切に願うものであったが、あくまで謝罪が「読者に」対してである辺りが情けない限りである。マスコミが持つ影響力やその存在意義を自らが知っているのであれば本来謝罪は「国民に」行うべきであったはずだ。報道の重さを考えれば絶対にそうすべきだったのだ。だがそれを選ばなかった。ここに「朝日」の報道の重さと言うものに対する認識の甘さを改めて知らしめた思いであるし、むしろ自らが報道機関としての尊厳を全て否定したそんな思いでこれを拝見させて頂いた。ただ、先程も言ったが若干これに関する報道が一部「過剰」であるのも事実だ。あまりにも行き過ぎた感情の煽りはそれはそれで誤った判断を産み感情のみを誤誘導する事も他社も忘れるべきではない。これは正に「他山の石」だ。ここで今一度マスコミ各社は報道の重さとその真の意義を考えて頂きたい。
2014年09月08日








見果てぬ夢

 本当にどうでもいい話で大変申し訳ないが、私は幼少期に父親と兄に嘘をつかれて裏切られたと言う悲惨な過去を背負っている。当緯5歳の私はその二人に「床屋に行って来い」と言われてそれに素直に従った結果、当時開催されていた高度経済成長の象徴ともいえる国民的行事であるところの大阪万国博覧会に連れていって貰えないと言う憂き目を見た。いや、馬鹿な事をと一笑に付されてはたまらない。この万博には当時世界で一番注目されていた「月の石」が展示されていたのだ。これがどれだけ見たかったことか。いや、間違いなくこの時、この二人が当時素直一色だった私を万博に一緒に連れて行ってくれて、加えて「月の石」を見せてくれていたら私はその後も人を信じる事しか知らずに夢である宇宙飛行士に向けて只管に勉学に励んでいたことは何の疑いも無い。この時の人に裏切られた体験こそが私の神家苦形成を大きく歪め、このような厄介な御大人を世に送り出す結果につながったのだと私は思っている。いや、ほっといて欲しい・・・
 とまあ、そんな訳でこの時アポロが持ち帰った月の石を見れずにもう45年が経過してしまったのだが、夏休みにふと新聞を見ていると現在その私にとって曰く因縁の深い月の石がこの九州で展示してあり見ることが出来るのだと言う。これを見ない手はない、と言う事で佐賀県立宇宙博物館を訪れた。

 何となく福岡の人間の心情として佐賀県に負けると言うのは若干許し難い感もあるが宇宙博物館に関しては素直に負けを認めよう。いや永年の念願かなってとうとう「月の石」を見ることが出来た。尋常で無く嬉しかった。

 その後博物館の中をゆっくり見学させて貰ったがどれも本当に面白い展示ばかりだった。いや、幾つになってもやっぱり科学や宇宙に関する事は男心にダイレクトに響くものだな。昔から男は星を見上げてその人生の行く末を想ったと言う。私とて同様でこれまでどれだけ星空を見上げて明日を想ったかしれない。多分いつの時代になっても宇宙はまだまだ未知のものであり、であるが故に永遠に男の憧れではないだろうか。と、こんな言い方をすると女性からお叱りを受ける昨今ではあるが・・・何となく心身共に忙しくハードな夏休みではあったがしっかりリフレッシュさせて頂いた。いや、月の石にはやはり底知れぬ力があるらしいと自分で勝手に思っておこう!!最後にプラネタリウムでゆっくり星を見ようと思ったがこれは完全に熟睡してしまった。いや〜星空の力恐るべし!!なかなか素敵な施設でした。皆さんもお時間があれば是非お立ち寄りください。
2014年08月30日








請願拒否

 先日ある市民団体の方から「請願の紹介議員になって欲しい」旨のご依頼があった。内容は「集団的自衛権の解釈の変更の閣議決定の取り消し」を求めるものである。基本政治家は誰にでも良い顔をしておきたいと思うものだ。拒否をしない限りは最悪票を失う事は無い。私とてその思いは同じである。況してや現在どの党にも属していないし何等周囲からの制約を受けるものでもない。極端な言い方をすれば、これはある意味地方議会の自己否定のような台詞になるし、それではいけない事は重々承知の上で随分自虐的な言い方だが、別に誰も気にもしない地方議会での請願くらい(実際はそうであるべきではないと思っているからこその決断なのだが)少々な事には目を瞑ってお引き受けするのが保身の為には最も正しい選択であろう。加えて、集団的自衛権の解釈変更と言う極めて姑息な、加えて法治国家の根幹を覆すような愚行についてはこの「徒然に」でも書かせて貰っている通り、基本的に反対の立場である。だが、私はこれをお断りさせて頂いた。提案理由の中に「これまで日本が憲法第9条のもと戦争のない平和な国であったのに…」から始まる文章があったからだ。
 先程も言ったように集団的自衛権の解釈の変更と言う行為は姑息で気に食わない。では、集団的自衛権を認めない立場なのか?否!!集団的自衛権は国がそもそも自然権のように持つべき独立国家の最低限の権利であると考えている。理想を言えば一国独立してその国の行く末をすべて自力で決まられるのが望ましいのは周知の事実だろう。しかし、現在のように複雑に絡み合った様々な価値観の世界情勢の中で、真の意味での一国独立は絵に描いた餅かもしれない。況してや複雑に絡み合う経済を、全てではないにしても国家繁栄の基盤として考えるのであれば尚更だ。必ず助け合うと言わないまでも絡み合う対象国は存在する。これらの全ての地域においていつ何時何が起きるかと言う事を予見しようもあるまい。当然、何もないに越したことはないが一旦有事の際に憲法の縛りがあり加えて集団的自衛権も認めないでは何もできやしない。経済のみならず様々な関係において結びついている国の危機に対して「私たちは戦争は出来ないから何もできないよ!」が通用するほど世の中は甘くない。況してや他国が我が国の為に有事に巻き込まれることもあり得る。その意味においては、現代において集団的自衛権は即ち自衛権に他ならないのだ。絶対に必要だ。そもそもの解釈がおかしいと思っている。しかしながらそういった解釈をこれまで当て嵌めてきたのであればそれを変更するなど本来許されるはずもない。従って憲法9条を改正すべきだと言うのが私の意見だ。憲法9条で「戦争をしない」等と謳っているから69年間戦争が無かったなど唯の幻想だ。アメリカと言う強大な武力の傘のもとに庇護されてたまたま国内で戦争が起こらなかっただけではないか。その同盟国の兵士が血を流すのを指を咥えて見ていろと言うのは随分傲慢な主張であろう。主張の中に「これで戦争の出来る国になる」と言う文言や「若い人たちを戦場に生かせるのか」ともあった。だが、現在でも「自衛の為」に戦争は出来るのだ。その際は当然国民は戦わなければならない。先程も言ったが他国の人間なら血を流してよくて我が国は流さないなどと言う手前勝手な理屈が通る訳もあるまい。唯そうならない為のギリギリの折衝はすべきだし基本戦争などと言う人類の最も愚劣な行為は避けるべく最大限の努力をすべきだ。誰だってこんな行為をしたいわけも無い。ただ、そこに至る覚悟は間違いなく必要だ。その延長線上に集団的まで含めた自衛権はある。確かにその意味で、現在の内閣にその覚悟があるのか疑問には思うが・・・
 いい加減9条が謳う「戦争の放棄」が他国の侵略を止めた等と言う愚にもつかない理想主義の幻想は捨てるべきだ。理念では平和は掴めない。一旦政治家を目指した以上、譲れない信念は私にもある。国の根幹をなす憲法に関する事が正にそれだ。悪い噂が流れる事は覚悟の上だし右翼と揶揄されるのも已むをえまい。しかしこの件に関してはあいまいな態度はとれない。今回請願の紹介議員になる事をお断りさせて頂いた理由はこの通りである。ご判断は皆様にお預けするしかない。
2014年08月17日








袋叩き

 また議員がらみの話かとほとほと食傷気味である。なんでもある府議が中学生とラインのグループを作ってやり取りをしていたところ、相手の中学生が「キモい」「うざい」等の言葉を使った為「校長に言いつける」「絶対に許さない」「徹底的にやる」等と恫喝紛いの言葉を使い、それに驚いた生徒が学校に相談し教育委員会から抗議を受けて事件が発覚し、この府議が丸坊主になって反省を表すも政党を除名されると言う大騒ぎになっている。
 LINEで女子中学生ら威嚇、府議が謝罪
 先に明確に言っておくが私は彼を擁護しなければならない義理は一切ない。だが敢えて言いたいのだが、これはここまで彼が責められる話だろうか?私は現在様々な理由からそれの利用を敬遠しているが、LINEとはただのコミュニケーションツールだろう?これを女子中学生とやってはいけないと言う何か決まりがあるのか?これを現在の若い人たちとの情報交換として行っていたなら基本何の問題も無いはずだ。むしろ「女子中学生と」と言う言葉が付いただけで過剰に反応する社会がある意味不健全だ。邪な勘繰りではないか?「LINEが女子中学生の間で援助交際等の犯罪の温床になっているしグループ内でのいじめの問題もある」ことは知っている。だが、それはあくまでも一部でそういった不適切な利用法をしている人間がいると言うだけであって基本的な機能としてはそうではないのだろう?であるならばそれを誰がどう使おうと問題があるわけも無い。加えて、子どもが大人に対して「キモい」等の言葉を使えば注意をされてしかるべきではないのか?これに厳しい言葉で接して威嚇紛いと言われればもう大人は子供叱る事も出来ない。「女子中学生とLINEをしていた。」「威嚇紛いの言葉を使った」だけで犯罪者扱いでマスコミに人格まで含めて無茶苦茶叩かれると言うのは一体どういう理由だ?少しではなく完全に行き過ぎてはいないか?
 勘違いしないで頂きたいが私は彼の真意など知る由も無い。彼に下心があったかどうかなど解りもしない。情報収集の仕方にしても「キモい」等の言葉に対する対応にしても、まだもっと適切で且つ冷静な対処法はあったと思う。その意味で完全に社会性を欠いているし迂闊であると思う。だがしかし、であるにしても周囲の過剰な反応の方がよほど薄気味悪い。何度も言うが甚だ常識を欠いた行動であると思わなくもないが、それでもこれはある意味LINEのと言うよりもSNSの世界では日常でしかない話だ。これにまるで「性的異常者」に投げ掛けるような言葉を浴びせる社会の方がよっぽど気持ち悪くないだろうか?で、その当事者に「訴える」と言われて水を打ったように静まり返る記者会見場。明らかに異常な光景だ。袋叩きを決め込んでいた相手に思わぬ反撃を受けて静まり返るとはむしろマスコミの覚悟を疑う。いつも言うが、誰かターゲットを決めて世間で袋叩きにすることはある意味爽快であろう。だが、それは一歩間違えば明確な社会が作り出す差別でありいじめの典型だ。魔女狩り以外の何物でもない。事の本質を捉えた上で彼自身の何の行動が問題であったのかを論うのであれば何の問題も無い。それこそ彼も公人だ。その覚悟はあろう。だが、感情的な気分と言うよりむしろ合わせ鏡のように自らの心情を現象に反映させて「女子中学生=不純」と決めつけて人を批判するのは余りに自らの邪な心を表現しすぎだろう。いい加減マスコミに踊らされるのは終わりにした方が良いのではないだろうか?何度も言うが彼の本心など知りたくも無いのだが、少なくとも雰囲気で誰かを悪者にして非難するのはむしろ全く大人のやる事ではないはずだ。少し社会が冷静さを欠いている気がするのは私だけだろうか・・・
2014年08月04日








憎しみの連鎖

 イスラエルでの戦闘が止まるところを知らない。ロケット砲による爆撃だけでは飽き足らず地上戦まで展開されているようだ。この件について今更歴史的な拝見云々を言うつもりはない。私に言わせれば、いくら聖書に示された「約束の地」であったとしても、2000年その地で暮らしてきた人たちの安住の場所を奪う権利など無いと思っている。しかしその彼等もまた世界各地で迫害の歴史にあったことも紛れもない事実だ。どちらか一方に加担する事なく平和的な解決を期待したいがそれにはもう70年のと言う歳月は余りに長すぎた。憎しみがまた憎しみを呼びとめどなくその連鎖は続いていく。パレスチナに対しての爆撃によって数多くの民間人どころか完全に非戦闘員であるところの女性や子供に多数の死者が及んでいる。これは国際法上どころか世間一般的な道義に照らすまでも無く絶対に許されるべき話ではない。が、その非戦闘員をもゲリラとして戦闘に参加させてきた歴史がある以上、これを攻撃する事は即ち自衛のためであると言われれば、これを非難する言葉を持ち合わせてもいない。しかし、その非戦闘員まで駆り出させたのは何故かとの尤もな理屈も成立する。卵が先か鶏が先かの堂々巡りではないがどちらにも正当な理由があって行う行為こそが戦争であり、実はこれを非難する言葉は当事者以外持ち合わせていないのだ。ただ、間違いなくこの戦争に当事者でない大国が「経済」と言う自分勝手な理屈で裏で暗躍している事だ。この行為鵜がまた新たな憎しみの連鎖を増長していく。ウクライナでも内戦のとばっちりで全く何の罪も無いそれも第三国の民間人の尊い人命が奪われた。戦争は決して物語の中の空想の話ではない。いついかなる時に自らに降りかかるか解らない物だ。まるで遠い世界の話のように集団的自衛権の云々を話をしている時点で、実は世界の現実から目を背けている事を日本人は今一度考えるべきではないだろうか。今日も世界の各地で戦争によって新たな憎しみの連鎖は増殖されていく。良くも悪くもその現実を直視して様々な議論が出来る国にならなければ、この国の国際感覚など幼稚以外の何物でもない。決して戦争や平和は他人事ではない。少しぬるま湯に浸かり過ぎているのかもしれない。
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